六月廿三日(火)庚午(舊五月八日 晴

 

中仙道を歩く二十八回、醒井宿から愛知川宿までを歩く、その一日目です。今回からは新幹線の米原驛まで行き歸りの豫定です。バス會社もかはりました。參加者二十六名(女性十七、男性九)、リーダーは山寺さん、添乗員は高橋さんのベストメンバーでした。

醒井驛到着後、驛前の店で早めの晝食をいただき、前回街道からそれた居醒橋までもどりました。番場宿までは一里ほどです。宿場の古びた家竝みをたどりはじめました。途中の西行水に立ちどまり、また、ちよいと言葉では表現しにくい、「一類孤魂等衆碑」でまた立ちどまり、壬申の亂横河の古戰場跡ではあたりを見渡し、名所に足をとどめるものの、ほぼ単調な街道を歩きつづけました。雨が降るかも知れないと思つてゐたのでしたが、暑くなりました。きつかつたです。ただ車の通らない舊道で、しかも回りには木々や草花が多かつたのが救ひでした。名神高速道路から分岐したての北陸自動車道の下をくぐつたところの、一一六番目の久禮の一里塚碑で休憩。みなさん、なんだか、はじめから苦しさうです。

ですが、もう番場宿のやうです。問屋場跡碑がいくつも目につきます。それででせうか、「米原・汽車・汽船道」なんていふ、かはつた琵琶湖へ通じる道しるべがありました。ここから、米原湊へ、そして船便を利用する物資が行き交つたのでせう。

本陣跡碑につづく、問屋場跡碑と竝んで、「明治天皇番場御小休所」碑が建つてゐました。すると、その先を行くみなさんが左の道に入つて行きました。待つてました。じつは、期待してゐたところなのです。豫定表にはなかつたので、危ぶんでゐたんですが、よかつたです。

といふのは、ここに蓮華寺といふ、聖徳太子ゆかりの寺、といふのはどうでもいいのですが、古いお寺があるんです。参道の上を名神高速道路が横切るそのガードをくぐり抜けると門にぶつかり、まづ脇から本堂へ導かれました。本堂でお話しがあつたんですが、ぼくにはまつたく聞き取れず、涼しくもあつたので居眠りしてしまひました。それから、裏にあるといふ『瞼の母』のあの番場忠太郎地藏尊を見に行きました。となりには、五輪塔が建ち、そのまはりの石垣には、長谷川伸をはじめ、島田正吾、中村勘三郎、片岡チエ藏、長谷川一夫らの名前が刻まれてありました。みな故人となられた方ばかりですね。

いや、それは有名ではあつてもフィクションですが、肝心の重い歴史を擔つた、北条仲時以下四三二人の墓地を訪ねそこねるところでした。調べてみる価値のあるところです。

つづいて、高速道路と竝んで坂を上り、まづ小摺針峠を越え、さらに下つてはまた上つて、はあはあ息を切らしながらやつと摺針峠にたどり着きました。ここには、かつて、「望湖堂」といふ格式のある茶屋があつたほど、琵琶湖の絶景が見渡せるはづのところなのですけれど、どうやら霞んでしまつて、湖面さへはつきりとはしません。まあ、こんなところかとあきらめました。

山の茂みをかき分け、薄暗い木立のなかの山道を下りきると、そこは北國街道の國道8號線でした。右に、つまり北に向かへば越前方面、左が中仙道です。一行は、右に曲がりました。今日のゴール、近江鐵道のフジテック前驛がすぐそばでした。あのエレベーター會社の建物がそばに建つ、廣々とした、といふより、なんがか荒涼とした場所ですが、なんと、會社がすべて資金を出して造らせた驛がそこにぽつんと建つてゐました。二六六〇〇歩でした。

バスに乘り込み、彦根市内のホテルに到着後、すぐに彦根城見學でした。美しい城内を歩き回りました。それだけで、一五七二〇歩でした。だいぶ疲れました。

 

今日の寫眞・・蓮華寺入口。摺針峠、「望湖堂」跡。彦根城天守閣。城から眺めた佐和山城跡と琵琶湖遠望。最後の、お堀の向かひの小さな建物が、井伊直弼が青春時代を過ごした埋木舎。

 




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