十二月六日(金)舊十一月十日(丁丑 曇天

 

昨夜おそく、佐々木譲著 『代官山コールドケース』(文春文庫) 讀了。代官町も訪ねたいと思つたが、考へたら、東横線が地下鐵副都心線とつながつて、澁谷驛が地下になつてしまつてからは、代官町驛はどうなつたのか。クライマックスで犯人を取り押さえた代官町驛はそのままあるのか、そこも調べなければならない。  

今日は、昨日の日記を書くのに手間取り、讀書は進まなかつた。 

 

 

十二月七日(土)舊十一月十一日(戊寅・大雪 雨降つたりやんだり。冷える

 

昨夜ちよいと興味半分で開いた、山本登朗著 『伊勢物語 流転と変転 鉄心斎文庫が語るもの』 があまりにも面白い、といふか好奇心を刺激されて興奮し、たうとう明け方までかかつて讀み通してしまつた。 

内容は・・・「鉄心斎文庫は、伊勢物語とその注釈書の写本・版本、伊勢物語を描いた屏風や掛け軸、さらにはカルタまで、さまざまなかたちをした伊勢物語のコレクションである。そのいくつかの書物それ自体の流転のあとをたどり、また、伊勢物語伝本が伝える変転の姿をたしかめ、この物語の成立と享受の過程のうちに、その変転に満ちた来歴をとらえる。」といふものであるが、ぼくは、そのなかでも、第二章の、「ヨーロッパを流転した伊勢物語─ルンプ旧蔵書─」が面白いと思つた。 

 

今日は雨。それも冷たい雨で、氣温はこの冬最低。でも外出しなければならない。西宮から出てきた神田君からお呼びがかかつたからだ。一二時半に三省堂の前で待ち合はせることにしたので、その前に古書會館に寄つて本を漁つた。和本が、書店によつて差があつたので、安價なところをほじくり返して、三册掘り出した。みな三〇〇圓。

 

輕い和本をさげたまま三省堂に行き、神田君と待ち合はせてから、地下の放心亭でカキフライ定食をいただいた。さうだ、今日は神田君の誕生日だといふので、いつもは割り勘だが、ぼくがごちそうするはめになつた。七十一歳になつたといふ。ぼくが明學を出るのに五年かかつたので、それで彼と同時に明學を卒業することができて、靑學にも同時に入學したのだつた。まさか關學まで一緒に行くことになるとは思ひもせず、小宮山書店の地下の喫茶店で神田ブレンドを飲みながら、東京から西宮まで、靑學自動車部の三トン積みトラックを借りて、二人してどのやうに引つ越ししたのか、思ひ出さうとしたができず。

 

歸宅後、今繼續中の「靑學時代日記」と「手帳」(この當時、「日記帳」にはその日その日のあふれる思ひばかりが書きなぐつてあつて、むしろ手帳に詳しく出來事が記されてゐる)を開いてみたら、あらためて、とんでもないことをしたのだなあと感心するやら、あきれるやら。なにせ、引つ越ししたのは三月四日、つまり二十二日の關學の大學院入學試驗を待たずにルビコン川を渡つたのだから、勇氣があつたといふか、實に無謀な靑春時代であつた。いや、もつと無謀だつたのは、その五月に結婚したことかも知れない。でも結婚してゐなければぼくはきつと長くは生きてゐられなかつただらうなと思ふ。 

それで、神田君には、「明學時代日記」と「靑學時代日記」、ついでなので、「關學時代日記」もメールに添付して送つた。 

 

神田君と別れてから、高圓寺の古書會館を訪ね、尾崎左永子著 『源氏の恋文』(文春文庫)、と 片桐洋一著 『平安文学五十年』(和泉書院)。これは、目次を見たら、今朝讀んだ 「伊勢物語」 についてと、「鉄心斎文庫」のことにもふれてゐるので、ちよいと面白さうだ。などを求めて、夕食に間にあふやうに歸宅した。今日の歩數、四九五〇歩。 

 

また、電車の中で、『伊勢物語』 を「資材」したといふ、觀世流の 『井筒』(檜書店) を讀む。世阿彌の作と考へられてをり、廻國の僧が、歸らぬ夫(在原業平)を待ちつづける妻(紀有常の娘)の亡靈に會ふといふお話。 

 

 

十二月八日(日)舊十一月十二日(己卯 晴

 

やつと五日までの日記が書き終へたので、「ひげ日記 讀書の旅」に載せることができた。 

 

深沢七郎文學記念館からいただいてきた、折本の 『みちのくの人形たち』 と、和綴じ用に四つの穴の開いた 『秘戯』 を讀んだ。前者は東北が舞臺、後者は博多が舞臺とだいぶ趣向は違ふが、不思議な世界に導かれていくやうな感じのする物語である。さう言へばぼくは今まで(五日の日記のおしまひのはうに擧げた)エッセイ風のものしか讀んでこなかつたから、とくに感じるのかも知れない。でも、どうしてこんなへんてこなものが書けるのかなあ? いや、これが魅力なのかも。 

『みちのくの人形たち』 は、「もじずり」の花を見に東北地方の山中の家を訪ねるはなしなのだが、「もじずり」とは、「ねじばな」のことであり、毛倉野でぼくも見たことがある。それで寫眞を探したけれど、どうしても見つからなかつた。 

それと、この本の奥書の脇に、「この一篇を我が心の友のかたがたに捧ぐ 深澤七郎」と、これは自筆ではないかと思へる細いペン書きの書體で書き留めてある。 

 

 

十二月九日(月)舊十一月十三日(庚辰 晴

 

『源氏物語〈朝顔〉』 を讀みはじめて、「懲りない好きものの光源氏が、こんどは前齋院の朝顔に言ひ寄る話だ」、と書いたけれども、今日讀んだところでは、源氏をみなほしてしまつた。この落差を強調したいために、著者は、前段でかくもいやらしい源氏の姿を描いたのかしらと思ひたくもなつた。 

それは、息子の夕霧の敎育方針についてである。當時は、「有力貴族の子は初めから高い位につき、大学になどいかないものだったが」、源氏は高位にはつかせず、大學寮で勉学させるのである。親戚や周りからは、とくに夕霧の祖母からはたいへんな叱責をくらふのだが、源氏は方針をつらぬく。偉い! 

だが、ここで突然夕霧が登場したわけだけれども、讀んでゐても夕霧のイメージがどうしても浮かんでこないのはどうしたことなのか? 

 

今日は食堂のテーブルの上でパソコン作業。「毛倉野日記(十八)」(一九九五年九月) を一氣に寫し終へた。以下は、メールに添付してお送りする時に記した文面である。 

 

今日のメール・・・「毛倉野日記(18)」(1995年9月分)をお送りします! 

こなさんみんばんは! 

「毛倉野日記」、スイス鐵道旅行とドイツへの旅で疲れてしまつたので、だいぶ間があいてしまひました。豫告しましたやうに、これからは、實に平々凡々とした、毛倉野の日々であります。まあ、飽きてしまつたら封印してしまつてください。 

日記帳や手帳を調べたら、毛倉野日記以前にも、大學時代のやら、女子高校教師時代のやら、さらにいくつかでの敎會での本業の日記やらが出てきて、「毛倉野日記」と同じやうに整理したら、もうぼくの殘された人生ではまとめきれないほどです。とくに大學生活の日記などは、ぼく個人の日記であると同時に、同時代を生きた友人たちの記録でもあると思ひました。どれだけできるかわかりませんが、この先、一つ二つ自分に課した課題を果たしながらも、「自分史」の作成に取り組んでいきたいと思ひます。まあ、からだがゆるすかぎり、といふか天のお方のおゆるしがあればですけれど・・・。おやすみなさい。ひげ淳 

 

 

十二月十日(火)舊十一月十四日(辛巳 くもり時々晴

 

今日は、明學時代の同窓生といふか、“同志”だつたお二人の女性と會食をした。場所は水道橋のかつ吉、美味しくいただきながら、昔のはなしはもちろん、現在の生活などについてもおしやべり。ひとりは成田在住で、十月十二日の臺風十九號では、強風に屋根を壊され、恐怖をおぼえたといふ。それを慰勞しての會食でもあつたが、「今日は自分を解放した一日でした。ありのままの自分になれるなんてそうはないよね。過去からつながつての今を話せる相手はそうはいません」と言ふ彼女のことばに、ぼくも深く納得をしたひと時であつた。 

 

先日もらつた「圖書」の新刊案内で、鎌田慧さんが、『叛逆老人は死なず』(岩波書店) といふ本を出すことを知つた。 

「デモに行っても老人ばかり、それでもいいじやないか。もう後もない年齢。何を恐れることがあろう。軍備に金をつぎ込み、人は切り捨て。そんな安倍政権では孫・子のいのちがおびやかされる。八〇歳超のルポライターが、安保法制、沖縄、原発、冤罪、労働など、いのちのために闘う誇り高き叛逆老人同志に贈る熱いエール。」 

これだけを讀んだだけでも熱いものが傳はつてくる。十九日發賣といふ。 

 

出入りの大工さんに、二階の本を中村莊の部屋へ運ぶことを依賴したら、快諾してくださつた。多忙なのでまだいつとりかかつてくださるかはわからないが、これで片付く目處がついた。 

 

久しぶりに、ドイツのヨッちやんにメールを出したところが、何度送信しても、「以上の宛先に対して配信できませんでした」、といふ返事ばかり。ヨッちやん無事なのだらうか?

 

 

十二月一日~十日 「讀書の旅」    ・・・』は和本及び變體假名本)

 

十二月四日 紫式部著 『源氏物語二十〈朝顔〉』 (靑表紙本 新典社) 

十二月四日 『宇治拾遺物語 卷第一』 (第一話~第十八話) 

十二月五日 佐々木譲著 『代官山コールドケース』 (文春文庫) 

十二月七日 山本登朗著 『伊勢物語 流転と変転 鉄心斎文庫が語るもの』 (ブックレット〈書物をひらく〉⑮) (平凡社) 

十二月七日 觀世左近著 『井筒』 (觀世流大成版 檜書店)  

十二月八日 深澤七郎著 『みちのくの人形たち』 (一九七九 夢屋書店) 

十二月八日 深澤七郎著 『秘戯』 (一九七九 夢屋書店)