十二月(師走)一日(日)舊十一月五日(壬申 晴

 

今日から、『源氏物語〈朝顔〉』 を讀みはじめる。本帖では、目立つた變體假名にはまだ遭遇してゐないが、見なれない漢字が使はれてゐるので要注意。これだけでも、〈薄雲〉とは書寫者が違ふと言つてもいい。 

内容は、懲りない好きものの光源氏が、こんどは前齋院の朝顔に言ひ寄る話だ。

 

 

十二月二日(月)舊十一月六日(癸酉 大雨

 

今日は大雨、晝に妻とそば屋に行くのに外出しただけで、温かくしながら、『源氏物語〈朝顔〉』 を讀み進む。靑表紙本五八頁のうち、夕方までに三〇頁を越えたから、今度は早々に讀み終へさうである。内容は、如何に前齋院・朝顔とねんごろになれるか、紫上を悲しませてもやまない源氏の色好み! そのことの始終で、鑑賞するにしてはだいぶ食傷氣味。まあ、變體假名で讀み通すのがより大きな課題だから、ぼくの倫理觀をもつて責めても仕方ない。 

それと、『宇治拾遺物語 卷第一』 だが、全十八話のうち、十五話まで讀んだのであと少し。それにしても下ねたが多いのには驚いた。それが中世的なのだらうか? どなたかが、日本の古典はエロ話ばかりと言つてゐたが、その通りかも知れない。

 

また、アマゾンで注文した文庫二册が屆いた。値段は一圓、つまり送料だけですんだので注文した。二册とも、佐々木譲の著作で、その一册は、『地層捜査』 の續編 『代官山コールドケース』(文春文庫) である。こんどもぼくの知らない代官山が舞臺なので、ここもいづれ訪ねてみたい。もう一册は、『制服捜査』(新潮文庫)。古書店で單行本で見かけたので、文庫版を探してゐた本だ。この人のは、地圖をかたはらに讀むと樂しみが倍増、これからも探して讀んでいきたい。 

 

 

十二月三日(火)舊十一月七日(甲戌 晴、日差しが温かい

 

朝、母が通つてゐる龜山病院へ行つて、インフルエンザのワクチンを打つてもらつた。先生とは、父の往診にきていただいた時以來だから、ひさしぶり。ちよいとお話してから打つていただく。妻は、母の付添で通ひなれ、先生はじめ看護婦さんや事務員とも顔なじみ、ぼくは初對面だから好奇心にあふれたまなざしで見られたが、みなおばさんばかりなので、ちよいとからかつてあげた! 

そのままふたりで上野に出た。目的もなく二人で散歩するのはひさしくないことだつた。京成上野驛下車、植ゑかへたり剪定途中の櫻並木を歩いて、上野東照宮に入つてみた。ぼたん苑は閉じてゐたが、動物園内の五重塔を仰ぎ見ながら、社殿の前に出た。きんきらきんで、日光東照宮を思はせる。「現在の社殿は慶安四年(一六五一年)に家康の孫である徳川家光が改築したもので、上野戦争や関東大震災や第二次世界大戦でも焼失を免れている」、といふ國指定の重要文化財である。 

わづかにもどつて脇道に入り、うなぎの伊豆榮梅川亭のかどを左折すると精養軒の前に出た。精養軒はハヤシライスが有名だが、いつだつたか、東京文化會館のなかで食べたら妻が不味いと言つたことを思ひ出した。名前に溺れてゐるのだらうと笑つてしまつた。 

そのまま進むと、先ほどは見かけなかつたおばさまがたの集團。韻松亭で會席料理でもいただきながら長時間おしやべりでもするのだらう、などと言ひながら山下までもどり、廣小路へ向かつた。ところが、JTBを右に入つたところのとんかつ武藏野のシャッターがおりてゐるのである。すでに一一時半をすぎてゐるからと、しばらく待つても開かない。 

ちやうど、食後訪ねるつもりの古本市が、上野廣小路の角で開かれてゐたので、わづかばかり時間をつぶして歸つてきても、準備中の木札はさがつたまま。他のお客も集まつてきたけれど、これはだめだと、中央通をはさんだ路地にあるとん八亭を訪ねたら、こんどは行列でいつ食べられるかわからない始末。では、と、上野驛構内(アトレ)のかつくらで、やつとひれかつ定食が食べられた。 

予期せぬハードな散歩になり、このあと別行動でぶらりと一人歩きをするつもりだつたけれど、妻と一緒に歸宅してしまつた。ついでだから、驛前の赤札堂に寄つておせんべい(ばかうけ)とのど飴(プロポリス配合のイソジンのど飴プレミアム)を買つてもらつた。今日の歩數は、八三〇〇歩だつた。

 

歸宅後は横になつて讀書。『代官山コールドケース』 を讀みはじめる。

 

 

十二月四日(水)舊十一月八日(乙亥 晴

 

『源氏物語〈朝顔〉』 讀了。つづいて、『宇治拾遺物語 卷第一』 も讀了。くらべて讀むと一目瞭然。變體假名の難易はとにかく、同じ日本語かと思ふくらゐ異なる、そのわけは何か。『宇治拾遺物語』 は、『源氏物語』 から二〇〇年ほど後の作品だが、すでに今日のぼくたちが讀んでも違和感がない。ときどきわからない單語や言ひ回しが出てくるくらゐだが、それにたいして、『源氏物語』 は敬語の氾濫、主語もはつきりしないといつた程度の違ひではない。語彙のむずかしさ、といふか今日の日本語では使はれてゐない言葉が多すぎるといふことだらうか。それとも宮廷といふ特殊な文化圏(?)のなかで書かれたからだらうか。いちいち單語をたしかめてゐたのでは讀書にはならないこともあり、ぼくは二册の註釋書のお助けを得て、どうにか讀み通すことができてゐる。 

 

アフガニスタン支援の中村哲醫師が、現地で銃撃され亡くなられた! 

 

書齋で讀んでゐると、ココがはじめて自分からぼくの胸もとにはいあがつてきた。二〇一六年六月に、ノラになりかけてゐたココを飼ひはじめてから、自分からぼくのそばに、それも胸に抱かれたくて近づいてきたのは、はじめてのことである。いい子いい子してあげたことは言ふまでもない。 

 

 

十二月五日(木)舊十一月九日(丙子 晴

 

今日は、見沼代用水見學第二彈。川野さんと見沼代用水の取水口、利根川の利根大堰を訪ねた。ところが、交通にはたいへん不便なところで、今回は特別に、久喜市在住の川野さんが自動車を出してくださつた。

 

東鷲宮驛に一〇時集合、出發。北西に二四キロ。約一時間で利根大堰に到着。はじめに、見沼代用水路を約六〇キロ開削した井澤彌惣兵衛爲永祀る井澤祠を訪ねた。そこは、見沼代用水元圦(最初に用水を取り入れた取水口)の跡であり、現在は見沼代用水元圦公園とされてゐる廣場といふか、草原のなかにあつた。それは、井澤彌惣兵衛爲永が、「元文三年(一七三八)三月一日に没すると、関係農民は、その功績を永遠に伝えるため、元圦畔に為永を祭る井澤祠を建設し、文政十二年(一八二九)石造に再建」したといふ祠だ。

 

それから、現在の取水口を見て、土手に上がつてみた。取水口は元圦(もといり)より下流側に、利根大堰で堰き止められた水がそのまま流れ込むやうにひらかれてあり、その水量は半端ではない。といふのも、現在は見沼代用水だけではなく、武藏水路、埼玉用水路、それに、利根川の下を横斷して群馬縣南部にも水を供給してゐる邑樂導水路までもが通されてゐる。しかも、農業用水のみならず、廣域の人々の飲料水までもまかなつてゐるといふのだから、非常に重要な施設なのであつた。

 

堤防の上は見晴しがよく、いやあ、壯觀の一言。晴れわたつた關東平野が一望、取り圍む山々がはるかかなたに展開してゐる。いい天氣でよかつた。 

大堰には、「大自然の観察室」と魚道まで作られてゐて、「一〇月から十二月いっぱいにかけて」、魚の遡上が見られるといふのだが、今日はまつたく見られなかつた。

 

つづいて、取水を管理する、〈水資源機構利根導水総合事業所〉を訪ねた。事務所で資料と、さう、ここでもダムカードがいただけて感激したあと、屋上にあがると、大堰と取水口の全貌はもちろん、遠く南西方向には富士山も見られた。下流側を見下ろすと、取水口から導入された水が、何本かに分流されて、はるか東京のはうまで流れていくのだと思ひ、ちよいと感傷的になつてしまつたのはどうしたことか! 

 

*見沼代用水元圦跡と井澤彌惣兵衛爲永を祀る井澤祠(ぼくの左肩の奥)。奥の堤防は利根川。二枚目は、分水口。その下が、利根大堰と取水口。井澤祠は堤防のさらに左寄りにある。

 


 

利根大堰をあとにしてから、晝食には地元のうどんを食した。かき揚げうどんと思つたのに、きたのが天たまうどん、間違へてを注文してしまつたらしい、ちよいと期待と現實とのギャップにのどがつまつてしまつた。それはさうと、川野さんの運轉で、見沼代用水路に沿つて下り、一六間堰と八間堰を訪ねる。ここは、見沼代用水路が、上流域で星川といふ既成の河川を利用した部分で、その河川と再び別れる分流地点であり、ここの堰では見沼代用水路の水量を調節する働きがあるのではないかとぼくは思つた。 

そこの管理をしてゐる〈見沼代用水土地改良区〉の建物に入つて、展示物を見たり、資料もたくさんいただくことができた。また、隣接して〈菖蒲文化会館アミーゴ〉なる御殿のやうな建物があり、このあたりだいぶ金持ちなのだらうかと勘繰つてしまつた。で、そこではトイレを借り、さらに、今回最大の見ものといふか期待してゐる伏越(ふせこし)と、見沼代用水路を開削した井澤彌惣兵衛爲永の墓を訪ねた。 

この墓は、柴山伏越のほとりの常福寺にあり、千代田區麹町の心法寺にある墓から分骨して墓石を建てたものださうで、それにしても、地元の人々の井澤彌惣兵衛にたいする感謝と尊敬のほどが知られて、感心しないではをれなかつた。

 

さて、期待する柴山伏越はといへば、百聞は一見にしかず、元荒川と直角に交はるために、元荒川の下をくぐる施設である。いやあ、稀有壯大! これが江戸時代に作られたのかと思ふと、身が震えてきた。すごい! なにがすごいかといふと、問答無用、歴史の審判に耐えるどころか、ぼ~つと口を開けて見入る者に、やればできるんだと、壓倒的な迫力をもつて迫つてくるからである。 

 

*井澤彌惣兵衛爲永の墓と柴山伏越。伏越(ふせこし)とは、要するに水路の立體交差のことで、今日ではサイホンと呼ぶらしい。寫眞二枚目は、見沼代用水が元荒川の下をくぐるために、地下にもぐるところ。三枚目は、掲示してあつた説明版。柴山伏越を上空から眺めたところ。左右に横切つてゐるのは元荒川。見沼代用水は、下方から上方に流れてゐる。「瓦葺サイホン」とあるのは、今回は訪ねなかつたが、井澤彌惣兵衛が作つたときは、交差する綾瀨川の上を越すやうに水路が作られたので、「掛樋(かけとひ)」と呼ばれた。それがのちに伏越にかへられたところ。

 


 

だいぶ歩きまわつたので、少々疲れてきたが、ラストスパートで、先ほどの〈菖蒲文化会館アミーゴ〉の駐車場にもどり、そこからは歩いて、深沢七郎文學記念館と本多静六記念館を訪ねた。

 

深沢七郎文學記念館といふとご立派のやうだけれど、見沼代用水路脇にあつたのは、プレハブのやうな民家のそれも座敷のなか。それが散らかり放題で、ただただ説明する館長の森田さんのお話をに耳をかたむけ、また來た人にはと言つて、深沢七郎の原稿用紙と 『秘戯』 と 『みちのくの人形たち』 といふ册子と折本をいただいたときは實に嬉しかつた。

 

また、本多静六記念館は、久喜市菖蒲総合支所の五階にあり、これはもうご立派そのもの。なにせ、「日本の公園の父」と呼ばれる人で、日比谷公園など全國の公園を設計したのだといふ。日比谷公園の松本樓で川野さんとカレーライスをいただいたとき、その脇に大きなイチョウが聳えてゐたけれども、それは、切られるところを、この静六さんが日比谷公園に移植させたのだといひます。まあ、地元の名士。でも、深沢七郎さんだつて、この菖蒲町に晩年の二十二年間、「ラブミー牧場」をやつてゐたのだから、名士とまで言はなくても、もう少し「ご立派な」施設があつてもいいやうに思へた。 

でも、『楢山節考』 はいいとしても、『言わなければよかったのに日記』 とか、『流浪の手記』 とか、『人間滅亡の唄』 とか、『盆栽老人とその周辺』 とか、『余禄の人生』 といつたものを書いてゐたのでは、やはり名士あつかひはむずかしいのだらうかと思つた。

 

さて、菖蒲総合支所の前から夕焼けにシルエットとなつて浮かび上がる富士山をながめながら深呼吸し、車にもどり、久喜驛まで川野さんと最後のドライブ。驛前のうなぎ屋「福本」でうな重をいただいて、お別れした。今日の歩數は、一二九〇〇歩であつた。 

川野さん、今回はとくにご苦勞さま、ありがたうございました。 

 


  

中野三敏先生が亡くなられた。十一月廿七日に、八十四歳だつた。先生の 『和本のすすめ』(岩波新書) を讀まなかつたら、變體假名を學ばうなどとは思はなかつたことを回顧すると、ぼくの人生にとつてたいへん影響を與へてくれた方だつた。

 

 

十二月一日~五日 「讀書の旅」    ・・・』は和本及び變體假名本)

 

十二月四日 紫式部著 『源氏物語二十〈朝顔〉』 (靑表紙本 新典社) 

十二月四日 『宇治拾遺物語 卷第一』 (第一話~第十八話) 

十二月五日 佐々木譲著 『代官山コールドケース』 (文春文庫)