月廿一日(土)舊八月廿三日(辛酉 曇天 

今日は休養日、ごろりと横になつて讀書三昧。氣壓計は今までの最高値、二〇二三ヘクトパスカル! 

まづ、坂口安吾著 『明治開化 安吾捕物帖』 讀了。本書は全二十三篇のうちの八篇のみの収録であつたが、これで辟易。これ以上はけつこうといつた内容であつた。登場する勝海舟も、それほど冴えてゐなかつたし・・・・。

 

また、『堤中納言物語』 の第十話、〈よしなしこと〉を讀了。これまた讀みずらい文章で、他にくらべて、讀んでゐて困つたのは段落がまつたくつかめないことだ。どこで區切つていいのかわからないから、ついつい棒讀みになり、意味内容をつかむどころではない。翻刻文をみてもむずかしい。ただ、内容は、ある僧侶が山に籠るのに、本來物が必要ないはづなのに、知り合ひの娘に旅の用意と稱してあれでもかこれでもかと品物を無心する、物盡しが面白い。 

で、これで、《變體假名で讀む日本古典文學》 の 『堤中納言物語』 は讀了といふことにして、次は、お待ちかね 『更級日記』 といきたい。 

昨日求めた、守部喜雅著 『勝海舟 最期の告白』 を讀みはじめる。

 

「毛倉野日記(十二)」(一九九五年三月)分、書寫續行。これが終れば、まる一年! 

 

九月廿二日(日)舊八月廿四日(壬戌・下弦 晴のち曇天、夜雨 

また臺風が接近。午後から雨になるといふので、午前中に箸作り。今日は二膳を荒削り。次回は前回の分とともに仕上げてみたい。それにしても途中で背中の筋肉が痛くなり、情けなかつた。

 

昨夜は、守部喜雅著 『勝海舟 最期の告白』 を一氣に讀了。後半は、海舟が、洗禮を受けないまでも、「私はキリストを信じる」と口にして最期を迎へるにいたるまで、海舟の人生が簡略にしかもその偉業も控へめにだがよくまとめられてゐる。 

江戸幕府がキリスト敎を禁じたのは、それがスペインやポルトガルなどの國家侵略的政策が見え隠れするカトリックだつたからか。それに對して、オランダとの貿易や學問を許したのは、そのカトリックにプロテストして生まれたプロテスタントだつたからではないかといふ指摘には、はつとした。 

海舟は、そのオランダ人のペレス・レイケンから長崎で航海術、だけでなくキリスト敎の歴史や敎へをまなび、後任のカッテンディケーからはさらに深くキリスト敎文化の影響を受け、なんとオランダ語の讃美歌を、おそらく本邦初の翻譯をしてゐるといふ。 

本書は寫眞も多く、先日訪ねた赤坂敎會とその前身の赤坂病院の寫眞も興味深い。病院は、醫療費が拂へない貧しい人々のために開かれ、禮拜も行はれてゐたといふ。 

また、海舟についてはじめて知つたことは、一八七一(明治四)年に、まだつづいてゐたキリシタン迫害について、政府に「耶蘇敎黙許意見」を出したこと。新島襄が京都に同志社をつくるときに多大の援助をしたといふこと。さらに、晩年には、日淸戰爭に反對したこと、それと足尾銅山鑛毒事件についても鋭く糾弾したことも知つた。海舟が田中正造に贈つた歌。

 

 「古河の濁れる水を眞淸水に誰がかきまぜてしらず顔なる」

 

原發はそれが存在するだけですでにリスクを負つてゐる。それを稼働するならば、どのやうな事故が起こらうとも、事故原因の如何にかかわらず、想定外といつて逃げることはできないはづだ。この歌を原發關係者の目の前に、否、愚かな裁判官に叩きつけてやりたい! 

 

ネットに寄稿された、山口二郎さんの “[寄稿]ナショナリズムという危険” は讀むに値した。ところが、コメント欄を見てびつくりした。山口さんの意見に批判的なものばかり。中には、韓國とは國交斷絶でいいといふコメントさへあつた! 何を考へてものを言つてゐるのだらう。 

そもそも、朝鮮をはじめ近隣各國を蔑視して侵略してしまえなどととなへたのは、長州藩士の吉田松陰である。讀みはじめた半藤さんと保坂さんの 『賊軍の昭和史』 によれば、「松陰はいわゆる侵略史観の持ち主だつた」として、その主張を引用してゐる。 

「蝦夷を開墾して・・・、カムチャッカ・オホーツクを奪ひ、琉球を諭し、・・・朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古(いにしえ)の盛時の如くならしめ、北は滿州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)の諸島を収め、漸に進取(侵攻)の勢を示すべし」(『幽囚録』) 

以上、長州人で占められてゐた明治の政權の中樞及び陸軍が、大陸侵略をやろうとしたのは明らかに松下村塾で毒されたその影響だと、半藤さんははつきり述べてゐます。とんでもないナショナリズムである。それに對して、朝鮮も中國も日本も兄弟なのだから仲よくやらなければいかんと主張しつづけて、日淸戰爭を批判したのが勝海舟です。 

まづ、自分の考への出どころはどこにあるのか、マスコミが報じてゐることを丸呑みしてゐないか、歴史を學んだうえでなのか等々、ここのところは冷靜に考へて判斷するべきだと思ふ。 

 

九月廿三日(月)舊八月廿五日(癸亥・秋分の日 晴のち曇天、強風 

母さん猫が死んだ。コヤタとブンゴとモモの母親である。先日竹箸作りの作業場から見かけたのが最後だつた。裏の軒下で大往生。區の淸掃事務所に連絡してから、死骸を届けた。有料であるが、燒いたあと契約してゐるお寺の墓地に埋葬されるのでありがたい。だが何よりも目が屆く我が家で死んでくれたのが慰めでありうれしい。さういへば、この父猫も我が家で死んで同様に葬つてあげたのだつた。

 

母が、三週間ぶりにデイサービスに出かけた。が、だいぶ老いてきたといふか衰弱が目立つ。食欲も以前にくらべたらだいぶ落ちてきた。 

今日は濕度の高い風が吹き荒れ、窓をあけて作業する箸作りは斷念するしかなかつた。

 

昨夜、『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第卅五・卅六』 讀了。卷第卅五の内容は、月輪殿(九條兼實)往生、津戸爲守法然に書状を送る等。卷第卅六は、赦免宣下、勝尾寺留錫、歸洛、大谷禪房へ入る等。 

つづいて、第卅七・卅八に入り、讀みあげてしまふ。その内容は、法然さんの臨終の樣子とその往生。ならびに、知恩院御影堂真影について。それと、諸人の瑞夢と堀川太郎入道往生の話。

 

*二〇一五年四月卅日、我が書庫兼工房前にて。右が母猫、つづいてコヤタ、モモ、ブンゴの兄弟妹。ごちそうを食べてゐるのでみなまるまるとしてゐる! 右は死ぬ四日前の母猫。

 


 

九月廿四日(火)舊八月廿六日(甲子 晴のち雨 

午前中木工。やつとお箸を三膳仕上げる。電氣ペンでさしあげる方々の名前を入れることもわすれなかつた。これで一通り作れることがわかつたので、これからは一日一膳でも二膳でも、天候の加減にもよるが仕上げられる。忘れてゐた指と手の使ひ方も、その工程になつてみると、自然に動いてしまふから不思議なものだ。

 

晝から出かけ、先に買物に出た妻と上野で待ち合はせて晝食をいただく。今日は、五目あんかけ燒きそばにした。歸宅後洗髪、夕方まで横になる。 

 

半藤一利・保坂正康著 『賊軍の昭和史』(東洋経済新報社) 讀了。もうなにをか言はんやであるが、これだけは確認しておきたい。 

「昭和の戦争で最も裁かれるべきは、軍参謀たちだったはずです。彼らが無責任に戦争へと突入し、現場を無視した無謀な作戦を強要して大勢の将兵を犠牲にし、国民を犠牲にした。それなのに、何の罪にも問われなかったことは、戦後の日本社会に禍根を残したように思われてならない」。とは最後の最後での保坂さんの發言です。 

では何故罪に問はれなかつたのか。「参謀たちは、天皇の持つ統帥権の代行者という建前でしたから、もし参謀たちの責任を問えば、天皇に最も大きな責任があるということになる。天皇を裁かないようにした結果、参謀たちの罪も問うことができなくなってしまったわけです」。つまり、「マッカーサーが天皇の責任を追及しなかつたから」だといふのである。 

と言つたつて、天皇なんかはたんなる「錦の御旗」であり、あつて無きがごとくに振る舞つてゐた参謀たちである。それを問へないといふのはなんとも情けなく思つた。といふ以上に、そのやうな體質が今日まで無自覺のまま引き繼がれてゐると思ふと、ああ、もう生きてゐるのがいやになる! と、言つてはゐられない。

 

*本書の帶による内容紹介・・・薩長史観に隠された歴史の真実! “官軍”が始めた昭和の戦争を“賊軍”が終わらせた!!  鈴木貫太郎(関宿)、石原莞爾(庄内)、米内光政(盛岡)、山本五十六(長岡)、井上成美(仙台)……など、幕末維新で“賊軍”とされた藩の出身者たちの苦闘を通して「もう一つの昭和史」を浮かび上がらせた異色の対談。 

奥羽越列藩同盟など、幕府方につき新政府軍(官軍)に抵抗した藩は、維新後「賊軍」としてさまざまな差別を受けた。その藩士の子息たちは、陸軍、海軍で薩長閥によって非主流派に追いやられ、辛酸をなめることになる。やがて昭和に入り、日独伊三国同盟に反対した海軍の米内、山本、井上の賊軍トリオは、主流派である薩長閥に抗しきれず開戦を迎える。そして、“官軍”が始めた無謀な戦争により滅亡の瀬戸際まで追い込まれた日本を救ったのは、鈴木貫太郎、米内光政ら賊軍出身者だった――。 

 新視点からあの戦争の真相を読み解き、先の戦争では国を破滅へと向かわせ、今なお日本を振り回す“官軍”的なるものの正体を明らかにする。 

 

九月廿五日(水)舊八月廿七日(乙丑 晴 

昨夜、『賊軍の昭和史』 につづいて、原田伊織著 『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』 を讀みはじめたら、これまたまたとまらなくなる。安心して讀める半藤さんにたいして、激しくて、嚴しくて、息苦しさに耐へつつも讀み進み、氣がついたら窓の外が明るくなつてゐた。

 

「今、私は、一言で 『幕末動乱』 といわれる台風の真ん中に飛び込んで、明らかな誤りや誤解を正しながら、先々 『官軍の書いた歴史』 が子孫のために正しく修正されることを願って、動乱のこの時代を整理しようとしている」と、これまた大風呂敷を廣げてゐるんですが、たしかに要點をついてゐるやうに思はれる。とくに、廢佛毀釋に關する指摘はまさにその通りとぼくもひざを打つた。 

ただ、討幕が成功せず、「明治維新という過ち」を犯さなかつたら、「私は、德川政権が江戸期の遺産をうまく活かして変質し、国民皆兵で中立を守るスイスか自立志向の強い北欧三国のような国になっていたのではないか」といふ説には、ぼくはどうも納得がいかない。 

さらに、勝海舟は幕臣でありながらあきらかな 『討幕派』 であると言つてゐることはその通りだと思ふとともに、海舟は幕藩政治の行き詰まりを知りつくし、討幕なくしては近代日本はないと考へてゐた稀有な人物だつたと思ふ。けれども、どうしたら血を流さずに、しかも西洋列強の介入なしに、幕府にかはり、新しい日本を立ち上げるかに惱み苦しんだ、そのあたりの幕府と討幕勢力(具體的には西郷隆盛)との間に立つた驅け引きがどうだつたのだらう、これはぼくにとつてだが、微妙で興味深い。 

それはさうと、本書による、會津人にたいする長州人の下劣な殘虐さには反吐が出さうだ! これと同じやうに滿州や朝鮮に侵攻したとすれば、恨み骨髄、末代まで怨念を買ふのは當然であらう。それを美化した歴史教育がなされてきたと思ふと、再びもう生きてゐたくないと思つてしまふ。 

 

さらに、『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第卅九・四十』 讀了。内容は、法然上人の法要についてと、公胤往生、有名な明恵がその著『摧邪輪』(ざいじゃりん)を書いたことを悔いる話し等。

 

今日も箸作り。昨日仕上げた三膳を包装し、すぐにでもプレゼントできるやうにしたあとで、さらに二膳仕上げる。

 


 

 

九月一日~卅日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

九月一日 半村良著 『講談 碑夜十郎(上)』 (講談社文庫) 

九月二日 半村良著 『講談 碑夜十郎(下)』 (講談社文庫) 

九月三日 半藤一利著 『戦う石橋湛山 新版』 (東洋経済新報社) 

九月四日 キース・ピータースン著 『暗闇の終わり』 (創元推理文庫

九月六日 キース・ピータースン著 『幻の終わり』 (創元推理文庫

九月六日 〈はなたの女御〉 (『高松宮藏 堤中納言物語』 日本古典文学会) 

九月七日 半村良著 『江戸群盗伝』 (文春文庫) 

九月九日 諸田玲子著 『お順 勝海舟の妹と五人の男(上)』 (毎日新聞社) 

九月十日 諸田玲子著 『お順 勝海舟の妹と五人の男(下)』 (毎日新聞社) 

九月十一日 下田ひとみ著 『勝海舟とキリスト教』 (作品社) 

九月十四日 半藤一利著 『それからの海舟』 (ちくま文庫) 

九月十六日 〈はいすみ〉 (『高松宮藏 堤中納言物語』 日本古典文学会) 

九月廿一日 坂口安吾著 『明治開化 安吾捕物帖』 (角川文庫) 

九月廿一日 〈よしなしこと〉 (『高松宮藏 堤中納言物語』 日本古典文学会) 

九月廿一日 守部喜雅著 『勝海舟 最期の告白』 (フォレストブックス

九月廿二日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第卅五・卅六』 

九月廿三日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第卅七・卅八』 

九月廿四日 半藤一利・保坂正康著 『賊軍の昭和史』 (東洋経済新報社) 

九月廿五日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第卅九・四十』