九月(長月)一日(日)舊八月三日(辛丑 晴のちくもり 

今朝の氣壓は一〇一九hPa、通常より高い。それでからだが少し輕く感じるのだらうか。 

今日から九月。八月に木工を再開するなんて意氣込んでみたものの、暑さと體調、それに準備の加減で手につかず。で、そろりそろりとはじめてはみたい。ところがまた、讀書が一段と面白くなつてしまつて、困つたものだ。 

半村良さんの 『講談 碑夜十郎(上)』 讀了。()に入る。 

 

九月二日(月)舊八月四日(壬寅 晴 

 

午後から散歩に出、京成上野驛から西日暮里驛まで歩く。つまり、上野公園の南端から、公園内を北につらぬき、動物園前、藝大前、そして櫻木、谷中の通りをぬけ、彰義隊と新政府軍との上野戰爭の際に、新政府軍が發砲した銃彈の痕が殘る經王寺山門の前をさらに行くと諏訪神社につきあたり、その境内をぬけると西日暮里驛なのでした。この道はすでになんども歩いてゐますが、ほとんど起伏もなくて散歩にはうつてつけです。しかもけふは月曜日、人出が少なくてのんびりゆつくり、息にあはせて歩くことが出來ました。

 

訪ねたのは、大雄寺と養福寺。大雄寺では、幕末の三舟の一人、高橋泥舟の墓を詣で、養福寺では、自堕落先生(山崎北華)の墓を探してみたものの、どこにもないとあきらめて山門を出ようとしたその右手の籔の中に見つけました。なんでも、生前に自ら作つておいた墓、といふよりも、「死んだといつわって葬式をだし、狂文の碑をたて」とあるそのことでせう。丸い自然石に「志たらくせんせいの石碑」と彫られてありました。 

上野驛スタートが、一五時四〇分。西日暮里驛着が一七時〇五分。それも、ところどころみちくさを喰ひながらですから快適でした。歩數も正味五二二〇歩でした。 

と言ふわけで、西日暮里驛をめざしたのは、驛横にあるうな鐵のうな重を食べたくて、それで腹をすかせるための散歩でした。 

 

半村良さんの 『講談 碑夜十郎(下)』 讀了。 

カバーの内容説明・・・己の名も過去も知らぬ謎の美剣士碑夜十郎だが、人情あつく正義感は人一倍。囚われの友を救出せんと今宵も危険を覚悟で敵地に乗り込んだが、さて。一肌脱いだ河内山はいかに。天保六花撰プラス美男剣士が江戸の町を痛快に暴れまくる。物語の名手が講談と小説をジョイントさせた傑作長編時代小説。全二巻。 

つづいて、圖書館から屆いた、半藤一利著 『戦う石橋湛山』(東洋経済新報社) を讀みはじめる。 

 


 

 

九月三日(火)舊八月五日(癸卯 曇天夕方から雨 

 

石橋湛山といへば、戰後總理大臣をつとめたこともある人物だつたので、まつたく意に介さないできてしまつたが、大正、昭和初期の偉大なる言論人であることを知り、あらためて見直してゐるところです。それで、今日、ネット注文で屆ゐた 『石橋湛山評論集』(岩波文庫) の表紙には次のやにありました。 

「明治四十四年から敗戦直後まで、『東洋経済新報』において健筆を揮った石橋湛山(一八八四~一九七三)の評論は、普選問題、ロシア革命、三・一独立運動、満州事変等についての評論のどれをとっても、日本にほとんど比類のない自由主義の論調に貫かれており、非武装・非侵略という日本国憲法の精神を見事なまでに先取りしていた。39編を精選」

 

ところで、半藤さんの 『戦う石橋湛山 新版』 を讀んでゐたら、滿州事變勃發に關して、佐高信さんの 『石原莞爾 その虚飾』 を讀んで書いた部分にだいぶ間違ひといふか、讀みが足りないことがわかつた。それにしても、佐高さんの本を讀んでゐたから理解できるところが多々あり、それだけにこの時代は複雑怪奇だつたのだなあと思はざるを得ない。 

半藤さんは、滿州事變は、天皇の意向にも反し、政府がとめても聞かぬ、明らかに關東軍の陰謀による侵略行爲であつたにもかかはらず、「支那側軍隊」に侵犯されたとの軍部による發表を頭から信じて「戦火を煽ったのはマスコミ」、つまり新聞であつたことを強調してゐます。といふのは、このとき、もし國民が冷靜に事態の収拾を願つたら、軍隊もさらなる侵攻はできなかつたらうといふのです。軍部は、國民がどう反應するか、恐る恐るうかがつてゐたのださうです。

 

特に興味深かつたのは、「第三章 日本は満州を必要とせぬ」 といふところです。湛山が、なぜ滿州が必要ないかを懇切に説明してゐます。目からウロコが落ちたと言つても過言ではありません。それだけに、どうして軍隊は滿州に固執し、攻め入つてしまつたのか。もう、單なる理想をかかげて酔いしれた遊びでしかなかつたと思ふしかありません。 

 

九月四日(水)舊八月六日(甲辰 曇天 

 

昨夜も徹夜しさうになつた。半藤さんの 『戦う石橋湛山 新版』 讀了。面白いといふより、歴史の眞實を知る思ひで、興奮せざるを得なかつた。一連の昭和史を讀んできてゐたおかげで、滿州事變勃發前後から、「滿州國」建國宣言、國際連盟脱退までの経過が、湛山の弛み無い批判を通して、立體的に見えてきたからだらう。 

それにしても、戰爭を導いた新聞の責任は重いと思つた。軍部を批判するどころか、鐘や太鼓を打ち鳴らして國民を煽り、軍部とともに、これを忖度といふのか、侵略をしぶる政府にたいして開戰を迫つたのにはあいた口が塞がりませんでした。そのやうな状況のなかで、湛山はめげずに言論をもつて戰つたのですから、本書の表題は僞りではありません。 

ただ、圖書館から借りた本ですから、線が引けず、附箋を何枚も貼り付けてはみたけれど、結局役には立たず。この種の本はやはり買ふしかないことを敎へられました。 

 

本書の内容・・・戦争へと傾斜をはじめた昭和初期にあって、ひとり敢然と軍部を批判し、自由の論調を少数意見として説きつづけた石橋湛山。時流に乗って戦争を煽り、国際的孤立へと世論を導いた神がかり的マスコミ(日和見な大新聞)の中で、変わることのなかったリベラリスト湛山の壮烈なる言論戦を、縦横に描いた昭和ジャーナリズム史。 

 

つづいて、キース・ピータースンの 『暗闇の終わり』 (創元推理文庫) を讀みはじめたところ、一氣に讀みあげてしまつた。はらはらどきどきのハードボイルド間違ひなし。これは、全四册のシリーズものだが、「ニュースのうけを先行させる編集長」に抗して、「眞實の報道」を追及する主人公の活躍が興味深い。 

本書の内容は・・・晩秋のグランド郡で同じハイスクールの生徒が三人、相次いで自殺を遂げた。『ニューヨーク・スター』の記者ジョン・ウェルズは単身取材に赴くが、一人娘をやはり自殺という形で喪っている彼には、苦いインタヴューの連続となる。だがそんなウェルズの前に、事件はやがて、意外な真実を明らかにしていった…。敏腕記者の苦汁に満ちた闘いを描く、話題のハードボイルド第一弾。 

つづいて第二彈 『幻の終わり』 。 

 

九月五日(木)舊八月七日(乙巳 曇天 

 

それで、ただただ 『幻の終わり』 讀みつづける。 

そのなかに面白い記述があつた。主人公の友人である通信社の支局長が、主人公と友人となつたその切つ掛けの場面なんですが、ある大會での「ビジネスとしてのジャーナリズム」と題したディナーつきの講演を聞いたあとで述べた意見であります。 

「ジャーナリズムもたしかにビジネスです。工場を経営していくのと同じことです。民主主義を支える有権者にくだらないニュースを粗製濫造して新聞の売れ行きを高めているわれわれジャーナリストが、手っ取り早く利益をあげるために安全性に問題のあるまがい物商品をせっせと作りだしている製造業者とどこがちがうと言えましょう。私企業という体系のなかに身を置く者として、製造業者もわれわれマスコミ人も等しく、自分たちが作り出す製品に、さらに一層の責任を持つべきなのです。・・・わかったか、こののうたりん」。 

と、さいごに付け加へた、「こののうたりん」 が實にいい!  

 

 

九月一日~卅日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

九月一日 半村良著 『講談 碑夜十郎(上)』 (講談社文庫) 

九月二日 半村良著 『講談 碑夜十郎(下)』 (講談社文庫) 

九月三日 半藤一利著 『戦う石橋湛山 新版』 (東洋経済新報社) 

九月四日 キース・ピータースン著 『暗闇の終わり』 (創元推理文庫)