八月廿六日(月)舊七月廿六日(乙未 曇り日中晴 

今日は、圖書館から屆いたばかりの、池波正太郎著 『闇の狩人』 を讀みはじめる。『江戸の暗黒街』 と 『闇は知っている』 の續編といつた感じで面白い。 

また、積んである本を掘り返してゐたら、半藤さんと保坂さんの文庫本數册とともに、井出孫六さんの 『抵抗の新聞人 桐生悠々』(岩波新書) が出てきました。四年前に購入しておきながら、やつと日の目を見たといふか、ぼくの關心の焦点がさだまつてきたのでせう。その〈はじめに〉を讀んで改めて敎へられました。 

著者は、その冒頭で、「わたしの郷里の新聞『信濃毎日』に、桐生悠々という主筆がいたことを」、昭和二十六年十月の 『東京新聞』 に連載された正宗白鳥のエッセー、「人生如何に生くべきか」を讀んで初めて知つたと述べて、さらに次のやうに記してゐます。

 

「要するに、明治・大正の知識人は『人生如何に生くべきか』を国家との対立関係で考える必要がなかった。それにひきかえ、昭和という時代には、もはや国家もしくは政治と無縁なところで『人生如何に生くべきか』を考えることが許されなくなったのだ」といふ、白鳥の言はんとしてゐることを書いてゐます。あの無謀な戰爭を經驗してきた者でなくては言へない言葉であり、正宗白鳥自身が、その戰時體制にたいして何も抵抗ができなかつた反省と悔いから出た言葉でもあるとぼくは思ひました。 

しかしそれは、昭和を經て、平成、令和の現在もかはらないどころか、ますます自覺をもつて生きていかなければ、再び反省と悔いに滿ちた人生を送らなければならないことを敎へてゐると思ひます。 

『闇の狩人(上)』 讀了。(下)に入る。 

 

八月廿七日(火)舊七月廿七日(丙申 曇り午前中一時雨、 

『闇の狩人(下)』、面白くてやめられず、といふか寢むることあたはずして明け方讀了。面白かつたことのひとつは、江戸の地圖を樂しみながら讀めたことでした。いつも手もとに置いてあるのは、人文社から出てゐる〈古地図ライブラリー〉の一册、『嘉永・慶応 江戸切繪圖』 です。出てきた地名を、これと、現代の東京地圖とでたしかめながら讀むと面白さが倍増するといふものです。

 

つづいて、井出孫六さんの 『抵抗の新聞人 桐生悠々』。これも讀みはじめたらとまらなくなりました。 

驚いたのは、悠々がどのやうな党派にも属してゐなかつたといふことです。彼の主張や活動見てゐると、いはゆる社會主義思想家だつたのではないかと考へたくなるのですが、彼は「若い頃から他に寄生することを嫌う独立の精神が強」い、自由人だつたのです。 

その自由人悠々が、明治天皇の死に殉じた乃木希典の殉死にたいする痛烈な批判を書いてゐるのですが、その悠々の文章を全文引用したあとで、著者は、「彼の批判の立脚点は、『五箇條の誓文』 という、明治維新の出発点にあたって闡明されたはずの、近代政治の原理であった」といふのです。たしかに、そのなかには、「旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし」とあり、殉死はまさに「陋習」だとして批判したのでした。「五箇條の誓文は、高まるファッショ的潮流に対して結集できる最大公約数のシンボルとして」考へられたからでした。

 

また、「論説記者としての悠々は、小心と思われるほどに、人との交わりに注意をくばっている」とも書かれてゐます。それは書かなければならない対象が知人だと、「まさかの時に筆が鈍ぶ」ってはいけないからといふのです。實に徹底してゐます。しかし、「彼が大胆な行動に出るのは、いつも正義感をバネとするものであった」とも。 

さらに、「鉱毒と水没の村谷中に賭けた晩年の田中正造のひたむきさと、晩年 『他山の石』 によって戦争の非と愚を説きつづけるべく下駄ばきで名古屋の印刷所に通った老記者悠々のYシャツの後姿には、どこか相通ずるものが、わたしにはあるような気がしてくる」と、著者は書いてゐます。 

さうかと思つたのは、本名桐生政次(まさじ)は、「生来、せっかちである自分の性格を矯める意味をこめて、『悠々』の雅号を思いついた」といふのです。その傳でいへば、ぼくも「悠一」にしたい思ひました。 

 

八月廿八日(水)舊七月廿八日(丁酉 雨降つたりやんだり 

井出孫六さんの 『抵抗の新聞人 桐生悠々』 讀了。硬い本なのに、こんなにすらすら讀めて面白いのは久しぶり、いやはじめてかも知れない。『闇の狩人』 もとまらなかつたが、こちらもとまらずに昨夜は徹夜しさうになりました。

 

明治四十三年(一九一〇年)九月、悠々三十七歳のとき、あちこち新聞社を渡り歩いたすゑに、信濃毎日新聞社に入社。そのときの『入社の辞』を引用したあとで、著者は書いてゐます。 

「政治、経済、法律、文芸、文明批評、自然科学、敎育と、この新任の主筆の筆にかなわぬテーマは見あたらぬほどだといってもよい。悠々の前半生の無駄道、道草とみえたものが、すべて、その論説活動のなかで、生きた姿をとって立ち現れる」。人生、すべからくかうでなくてはならないと思ひました。

 

それと、北國街道を歩くツアーでぼくも訪ねたことのある、富山縣魚津で起こつた米騒動。その時の寺内内閣を總辭職させたそもそもの發端は悠々の書いた社説にあつたことをはじめて知りました。著者は、その全文を引用したあとで、「もし一九一八年に 『ピューリッツァ賞』 というものがあったとしたら、それは、東洋の片隅の、外国人の誰も知らぬ新聞に掲げられたこの 『新聞紙の兵糧攻め─起てよ全国の新聞紙!』 に与えられてしかるべきだったと、わたしは思うとともに、この悠々の名社説は日本新聞社説史の金字塔ではあるまいかとわたしは思う」、と熱く書いてゐます。 

まさに、「あくまで記者は、『社会的道理を守る検察官』 でなければならなかった」のです。しかし、彈壓に次ぐ彈壓。

 

蟋蟀(こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜

 

昭和十六年、「特高の検閲が前門の虎ならば、喉にひろがる癌細胞は校門の虎であった。見えぬ二つの敵と、渾身の力をふるしぼって悠々の最後の闘い」はなされ、ついに、同年九月十日、「長男の膝に抱かれて、六十八年の波瀾の生涯を閉じた」のでした。 

忘れてはならないのが、悠々の妻、壽々の存在です。孤軍奮闘しつつも 『他山の石』 を出し續けられたのは、“専務取締役”であつた壽々の支へあつたればこそでした。 

 

*本書の内容紹介・・・明治末から日米開戦前夜に至るまで,『信濃毎日』『新愛知』の主筆として,また個人雑誌 『他山の石』 の発行人として,反戦と不正追及の姿勢を貫き,ジャーナリズム史上に屹立する桐生悠々.若き日には文学を志して尾崎紅葉の門をたたき,十二人もの子をもうけ,こよなく酒を愛した六十八年の燃えるような生を,時代の変転のなかに見事に描く。 

 

つづいて、佐高信著 『石原莞爾 その虚飾』 をと思つて讀みはじめたところ、さう言へば桐生悠々の本があつたことを思ひ出し、押し入れの文庫本をほじくつたら見つかりました。『畜生道の地球』(中公文庫)です。井出孫六さんの 『抵抗の新聞人 桐生悠々』 と同じ頃に求めたのでした。「本書は有名な 『防空演習を嗤う』 より始めて、もっぱら 『他山の石』 の中の時局批判の文を集めた」ものです。 

ただ、なぜこのやうな表題なのかと言ひますと、亡くなる數日前に書かれた遺書ともいへる 「『他山の石』廃刊の挨拶」 のなかで、つぎのやうな言葉が使はれてゐるからだと思ひます。

 

「・・・・小生の痼疾咽喉カタル非常に悪化し、流動物すら嚥下し能はざるやうに相成、やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、唯小生が理想したる戰後の一大軍粛を見ることなくして、早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」。

 

ぼくも若干似たやうな病状にありますが、まだ「超畜生道に堕落しつつある」世界を見てゐたい氣がするので、「消え失せる」のはできればもう少しあとにしたい。まあ、せつかく讀みはじめたので、佐高信さんの 『石原莞爾』 を讀んでしまひます。これまた引き込まれるやうな激しい内容です。 

 

 

八月廿九日(木)舊七月廿九日(戊戌 晴 

今日は一日、佐高信さんの 『石原莞爾 その虚飾』 を讀みつづける。すると、面白いやうにわかつてきたことがある。それはなぜ陸軍は大陸に攻め入り、滿州國などをつくつたのかといふぼくの疑問にこたへてくれたといふ意味ですが、そもそも、攻め入つたのではなかつたのです。ただ閉塞状態の日本をのがれて、いはゆる「王道楽土・五族協和」の理想國家をつくらうとしたのですが、その理想をぶちまけて、あとさき見ずに先頭に立つてつきすすんだのが石原莞爾といふとんでもない詐欺師といふか、大ぼら吹きといふか、そのためにはどんな犠牲も顧みない無賴漢だつたのです。

 

だから、滿州の人々もはじめは歡迎したのです。それがあまりのも言ふことと違ふので疑問をもち、それを訴へた者は捕らはれたり慘殺されたり、といふより、滿州の人から見たら日本人が自分たちを人間とみてゐないことがわかつてきたのです。「五族協和國」等の理想はただの掛け声。佐高さんは言ひます。「石原(莞爾)の地位にあり、その影響力をもって、現実をしっかり把握せずに理想を語ることは、ある意味で犯罪である」と。その掛け聲に導かれて「新天地」滿州に移住した日本人が、原住民にどんなひどいことをし、かつみずから悲慘な目にあつたかは周知の通りです。このやうに、結果的には日本軍による侵略といつてなんらさしつかへないものになつてしまつたのです。

 

では、なぜそんな男が權力といふか力を持ちえたのか、それは、陸軍の敎育にありました。海軍の井上成美が海軍兵學校校長をしてゐた時のこと、陸軍士官學校の生徒と文通や交際をしてゐた者にそれを禁じたといふのです。その時、「なぜ陸海軍が仲よくしてはいけないのですか」と尋ねられて、井上成美は次のやうに答へたといひます。 

「おれは陸軍が嫌いだとか好きだとかいってるんじゃない。学校の教育方針が違うのだ。陸軍は陸軍が第一、日本国第二なんだ。そういう敎育をしている。満州事変を見ろ、支那 事変を見ろ、みんな陸軍が先に立って国家を引っ張っていこうとしているじゃないか」。

 

さらにまた、軍隊と政府が一體となつた無責任體制がさうさせたのでした。そもそも、國家の統制に從はない軍隊なんて存在するのがおかしいし、それを許した日本とはどんな國なのだらうとぼくは思ひました。それは、どうでせう、敗戰を經てなほ今日まで尾を引いてゐるではないか。それを見て見ぬふりをする國民も國民です。

 

讀んでゐて救はれたのは、石橋湛山といふジャーナリストがゐたことです。この人物については、桐生悠々同樣讀んでみたいと思ひました。 

また、張作霖、張學良のこと、および、傀儡國家滿州國の皇帝として「床間の置物」のやうな愛新覺羅溥儀とその弟の溥傑とその妻「流転の王妃」浩のことなども多く廣く知ることができました。 

 

八月卅日(金)舊八月朔日(己亥・朔 雨降つたりやんだり 

昨夜、佐高信著 『石原莞爾 その虚飾』 讀了。これも途中でやめられませんでした。 

解説者が、「虚実とりまぜて伝説化した石原像を容赦なく打ち砕く偶像破壊の書である」と書いてゐるのですが、ぼくは石原莞爾の名前は知つてゐても、賛美されてゐた人物とは知りませんでした。だからこそ、著者は賛美者を刺激しないやうに言葉をえらび、愼重を期して書いてゐるのだなあと思ひました。

 

では、どうして賛美され神話化されるやうになつたのか、それは 「本書の内容紹介」 にまかせて、「石原を論じることで佐高さんが目指していること」とは、「自らが持つ権力や権威によって実行したことに一切、責任を取ることなく、逆に末端に行くに従って命令に随順するしかなかった人々がその結果責任を無限に負わされるというこの日本社会のあり方そのものに鋭いメスを入れることであった」。これは實に身につまされる言葉でした。さう、ぼくが中學生のころにテレビで見た、フランキー堺主演の 『わたしは貝になりたい』 を思ひだしました。 

 

*本書の内容紹介・・・ずばぬけた頭脳を持ち、日本陸軍史上最大の知謀と評された石原莞爾。いわく時代を先読みしていた、東条英機を批判したなど、平和主義者のように偶像視され、「石原讃歌」は今なお続く。しかし、この風潮に対して、真っ向からその欺瞞性を批判し、石原の行為は「放火犯の消火作業」と喝破する野心的力作評論。 

 

近ごろわかつたきたことが二つある。極(ごく)單純化して言へば、その一つは、日本人は上に立つ者によつて良くも惡くもなるといふこと。愚かな者の下では總崩れに愚かになり、正しき者の下ではみな正しく生きることを努力の目標とする。

 

例へば廢佛毀釋、それまで崇敬し信じてゐた佛敎および寺院を、お上が「廢佛毀釋せよ!」となれば、それらを惜しげもなく壊すは燃やすは、ではそれまでの信心はいつたい何だつたのだと言ひたい。あるいは、一九六七~七九年に渡る美濃部都政。ぼくが大學生から淸水時代にかけての頃ですが、福祉政策、公害對策を推進して、都民の精神が高揚されたのではないかといふ感触を覺えてゐます。

 

もう一つは、斷崖に向かふ車中においてであつても、乘客はみな安穏としてその先に待ち受ける運命に氣づこうともしないといふこと。ただ一つの救ひは、斷崖に向かつてゐることを敎へてくれるジャーナリストや新聞の働きです。そして、それらをもとに、よく考へ判斷して方向転換すべく行動する人びとが現れてくれることです。

 

ただ、方向轉換を願つて努力する人びとが存在する一方で、關東大震災時の朝鮮人大虐殺のごとき、あるいは太平洋戰爭開戰の知らせに酔ひ痴れた國民の總崩れを知れば知るほど、目の前にせまりつつある破局を回避することは困難だらうなと思はざるを得ません。だからこそ、判斷の基準となる事實を正確に報道してくれるジャーナリストや新聞が缺かせないのに、それが權力の御用新聞や「国家の宣伝要員」になつたり、彈壓に加へて口封じされはじめたのではお先眞つ暗と言ふしかありません。歴史は何度くりかえしたらすむのでせうか。さうか、歴史といふものは、個々人がよく考へ判斷して國の向ふ方向を制御できるやうになるまで、日本國民といふ生贄をふんだんに欲してゐるのかも知れません。 

 

『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第卅三・卅四』 讀了。内容は、法然上人が彈壓をかうむつたこと。まづ、安樂房の斬首、上人の遠流宣下、月輪殿(九條兼實)と惜別。それから、配流出發、經の島説法、高砂の浦民教化、室の泊の遊女教化でした。 

つづいて、氣分をかへて、半村良さんの 『講談 碑夜十郎』 を讀みはじめる。先日讀んだ池波正太郎さんの 『闇の狩人』 の主人公もさうでしたが、本書の碑夜十郎もまた記憶を喪失した人物なんですね。ただ池波さんのはうは物語がスムースで、ぐんぐん引つ張つてくれますが、本書は、ときには、「ここでまた筆者(わたくし)が申し上げれば、札差とは幕府の官庫云々」と、あれこれ解説してくれるのもまた興味深い。「講談」と銘打つてゐる所以でせう。 

 

八月卅一日(土)舊八月二日(庚子 曇りのち晴 

一週間ぶりに外出。神保町と高圓寺の兩古書會館の古書市を訪ねました。が、目ぼしい掘出し物はなく、以下の三册と町田のブックオフで一册求めただけでした。 

晝食を食べそこねたので、夕方早めに町田に行つて、柿島屋の馬刺しをたつぷりといただいて歸つてきました。八八〇〇歩でしたから、けつこうな運動量だつたと思ひます。 

小沢耕一著 『崋山渡邊登』 (田原町敎育委員会) 三〇〇圓 

蔵原惟人解題 『渡邊崋山 一掃百態(庶民風俗)』 (岩崎美術社) 一五〇圓 

立松和平著 『良寛(上下)』 (学研M文庫) 一〇〇圓×2 

半藤一利・保坂正康著 『賊軍の昭和史』 (東洋経済新報社) 七〇四圓+税 

また、歸宅したら、圖書館に賴んでおいた、半藤一利著 『戦う石橋湛山』(東洋経済新報社) が屆いてゐました。 

 

 

 

八月一日~卅一日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

八月二日 〈あふさかこえぬ權中納言〉 (『高松宮藏 堤中納言物語』 所収 日本古典文学会) 

八月四日 嵐山光三郎著 『「下り坂」繁盛記』 (ちくま文庫) 

八月五日 梅棹忠夫著 『夜はまだあけぬか』 (講談社文庫) 

八月十日 森詠著 『死者の戦場』 (小学館文庫) 

八月十一日 〈貝あはせ〉 (『高松宮藏 堤中納言物語』 所収 日本古典文学会) 

八月十三日 保坂正康著 『あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書』 (新潮新書) 

八月十四日 半藤一利編著 『十二月八日と八月十五日』 (文春文庫

八月十五日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第廿九・卅』 

八月十七日 日本文藝家協会編 『時代小説 ザ・ベスト2019 』 (集英社文庫

八月十八日 池波正太郎著 『江戸の暗黒街』 (新潮文庫) 

八月十九日 池波正太郎著 『闇は知っている』 (新潮文庫) 

八月廿二日 葉室麟著 『刀伊入寇 藤原隆家の闘い』 (実業之日本社文庫) 

八月廿三日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第卅一・卅二』 

八月廿五日 〈おもはぬかたにとまりする少將〉 (『高松宮藏 堤中納言物語』 所収 日本古典文学会) 

八月廿五日 半藤一利・保坂正康著 『そして、メディアは日本を戦争に導いた』 (文春文庫) 

八月廿六日 池波正太郎著 『闇の狩人(上)』 (新潮文庫) 

八月廿七日 池波正太郎著 『闇の狩人(下)』 (新潮文庫) 

八月廿八日 井出孫六著 『抵抗の新聞人 桐生悠々』 (岩波新書) 

八月廿九日 佐高信著 『石原莞爾 その虚飾』 (講談社文庫

八月卅日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第卅三・卅四』