八月十一日(日)舊七月十一日(庚辰 晴、猛暑 

今日も暑い。讀書とうつらうつらと子猫のお相手は今日もかはらず。 

『堤中納言物語』 の〈貝あはせ〉を讀み終らせてから、讀みかけの、『時代小説 ザ・ベスト2019 』 を繼いて讀みはじめる。 

〈貝あはせ〉は、今までに讀んだ 『堤中納言物語』 のなかでは一番ぼくの好みに合ひました。『源氏物語〈若紫〉』 の中で、源氏が若紫を見初める場面と似てゐるやうな、少女たちの振る舞ひがとても初々しく描けてゐるやうに思ひます。

 

弟が歸るに先だつて、増屋のカレーうどんをとつて食べる。二年前、このあとで心不全に陷つて入院したことを考へ、殘念だけれでども、汁は殘すやうにした。 

 

八月十二日(月)舊七月十二日(辛巳 曇り一時雨のち晴 

今日も氣壓はかはらず。その代り濕度が高かつたからだらうか、體調はよくなくて本を讀むのもしんどいありさま。午後、思ひきつて移動しなければならない本を籠につめて、二階の書齋から中村莊の書庫へなんどか運んだら、大粒の汗をかき、シャワーを浴びたことによつて、だいぶからだがらくになりました。 

 

八月三日に買ひ求めた、保坂正康著 『あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書』 (新潮新書) を讀み出したらとまらなくなりました。へたな小説より面白く、なんて言ふと不謹愼ですが、知らなかつた多くの事實に直面してぼくの心臟は高鳴りました。 

まづ、眞珠湾攻撃を端緒とする太平洋戰爭を始めたのはだれなのか、だれが責任を問はれるべきなのか。それは、海軍だといふのです。おそらくは陸軍の東條英機かと思つてゐましたが、東條の秘書官の證言によると、「あの戦争は、陸軍が始めたわけではない。海軍さんが一言、“できないよ”といったら、始めることができなかった」。実は、本当に太平洋戰爭開戰に熱心だったのは、海軍だつたということを、その理由を讀んで納得いたしました。 

それと、著者が、「私は、この戦争が決定的に愚かだったと思うのは、大きな一つの理由がある。それは、『この戦争はいつ終わりにするのか』をまるで考えていなかったことだ。その目標たる勝利が何なのか想定していないのだ」。といふこと。 

さらに、ぼく自身が一番許せなかつたのは、著者が、「この戦争は何のために続けているのか、という素朴な疑問に答えた資料」を見いだせなかつたといふこと。「資料に目を通していて痛感した。軍事指導者たちは“戦争を戦っている”のではなく、“自己滿足”しているだけなのだと。おかしな美学に酔い、一人悦に入ってしまっているだけなのだ。兵士たちはそれぞれの戦闘地域で飢えや病いで死んでいるのに、である」。 

「国民の側も、ウソの情報に振り回されていた。国民自身が、客観的に物を見る習慣などなかったから、上からもたらされる“主観的な言葉”にカタルシスを覚えてしまっていた。恐るべきドグマが社会の中に全体化していた」。 

いや、これは今現在のことではありませんよ、と指摘しなければならないほど、戰前の状況と似てゐると思はざるを得ません。 

參考になつたのは、夜放送された、《池上彰の戦争を考えるスペシャル 失敗は隠され、息子たちは戦場へ》 です。そこでも感じたのは、權力者の隠蔽體質は今日もかはつてゐないといふことです。これ、今の状況と似てゐませんか、といふ池上さんのことばが光つてゐました! それにたいして、權力に追從し、世論を煽つてゐるマスコミの責任は重い! 

保坂正康さんも、「末期的な心理状態がつくられていく予兆」とは、「指導者たちが自分たちに都合のいい情報のみを聞かせることで国民に奇妙な陶酔をつくっていき、それは国民の思考を放棄させる。つまり考えることを止めよという人間のロボット化だ」とおつしやつてゐます。 

 

八月十三日(火)舊七月十三日(壬午 曇天のち晴 

保坂正康著 『あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書』 讀了。これはたいへん勉強になりました。讀んでゐて胸がドキドキしてきましたが、何が問題なのか、各自が自分で讀んで見いだしていくしかないでせう。以下、カバーの内容説明です。 

「戦後六十年の間、太平洋戦争は様々に語られ、記されてきた。だが、本当にその全体像を明確に捉えたものがあったといえるだろうか─。旧日本軍の構造から説き起こし、どうして戦争を始めなければならなかったのか、引き起こした“真の黒幕”とは誰だったのか、なぜ無謀な戦いを続けざるをえなかったのか、その実態を炙り出す。単純な善悪二元論を排し、『あの戦争』を歴史の中に位置づける唯一無二の試み」。

 

つづいて、半藤一利編著 『十二月八日と八月十五日』 (文春文庫) を讀みはじめる。これは、保坂さんの 『あの戦争は何だったのか』 と違つて、開戰と終戰の當日の國民の樣子を浮き彫りにしてゐます。カバーの内容説明には・・・ 

「日本が真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争のはじまった1941128日。終戦の玉音放送が流れた1945815日。「青天霹靂の二日」にしぼって日記や手記などを選びとり、二日の間に起こったストーリーと絡めて、戦争が日本人の精神構造にどんな影響を与えたのかをあぶり出す。戦後70年の節目に特別編集された文庫オリジナル作品」、とあります。 

まづ、〈第一話 十二月八日 開戦の日〉。半藤さんは、十二月八日について、たくさんの有名無名の「日記や手記などを」引用したあとの結論として書いてゐます。「開戦は、恐れと心配の身震いをもたらしていたが、これまでのやりきれなさの一種の解放感もあった。ずっと頭の上にかぶさっていた厚い雲を突き破って、待ちのぞんでいた陽光がカッと射しこんできたかのような、熱気と痛快さとをともなった一撃と国民には映じた」。 

それにしても、ぼくが尊敬する人たちまでも、「遂に光栄ある秋(とき)が来た」、「胸がスーッとした」、「涙が流れた」なんて言つてゐるのには驚きました。例へば、ある評論家は、「戦勝のニュースに胸の轟くのを覚える。アメリカやイギリスが急に小さく見えてきた。われわれのように絶対に信頼のできる皇軍を持った国民は幸せだ。いまさらながら、日本は偉い国だ」。また、川合玉堂は、〈宣戦のラジオ国土震るわして民一億の血潮高鳴る〉といふ歌をのこしてゐます。 

これらのあとに、半藤さんは、「いったん開国によって死んだかと思える攘夷の精神が、脈々として生きつづけていた」のではないかともおつしやつてゐます。 

 

八月十四日(水)舊七月十四日(癸未 晴ときどき大雨 

半藤一利編著 『十二月八日と八月十五日』 讀了。昨日につづいて、〈第二話 八月十五日 終戦の日〉を讀む。昭和十六年十二月八日にはじめられた太平洋戰爭は、「君臣一如の国体護持のためには徹底抗戦のほかに道がない」といつて、結局戰爭の終はらせ方を知らず、また考へもせずに、三一〇萬人を戰地で失ひ、戰後の戰病死を含めると五〇〇萬人にもなる人々を犠牲にしてもやめられなかった。 

ところが、ぼくが驚いたのは、無条件降伏を受け入れたといふ、いはゆる昭和天皇の「玉音放送」を聞いても、やつと戰爭が終ったといつて喜ぶひとたちばかりではなくて、高見順の日記によれば、「こんなことで敗けるのはいやだ、戦争をつづければいいのにと、そういう人が多い。つづければ敗けるはずはないのに、そういうのである」。と記し、つづけて、これは「愚民化政策が成功したものだと思う。自国の政府が自国民に対して愚民化政策を採ったのである!」と述べてゐるのを讀んで、慄然としないではをれませんでした。 

A級戰犯・岸信介の孫であり、その祖父に喜ばれやうと、憲法改惡をはじめとする非人道的な政策を着々と進めてゐる現総理大臣のもと、また同じことが行はれてゐることに、どれだけの國民が關心をむけてゐるでせうか。いや、もう「あとは野となれ山となれ」の心境のぼくですから、これ以上のことは言ひません。 

 

楓さんから、書道展の入場券が屆きました。さつそく、川野さんをお誘ひした結果、上野で待ち合はせて見に行くことになりました。 

 

八月十五日(木)舊七月十五日(甲申・望 敗戰記念日 曇天時々激しい雨 

臺風一〇號、豐後水道を北上して廣島に上陸。猛威をふるつて夜には日本海に抜ける。 

氣壓は、朝は一〇一五ヘストパスカル、午後三時ころには一〇一二、就寢時には一〇〇八・五までさがつた。體調には變化なし。 

 

『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第廿九・卅』 を讀みあげる。 

卷第廿九では、法然上人の弟子のひとり、成覺房幸西が唱へる「一念義」を、上人自ら「凡そ言語道斷のこと也」、と退けたはなし。 

法然の敎へを受けて、建永元年(一二〇六)五六歳で出家した、平基親(たいらのもとちか)が、「毎日五万遍の念仏を称えていたが、一念義を立てた成覚房幸西に非難されたために、念仏について法然に手紙を出したところ、『近ごろ、本願を信じた上で称える一念以外の多数の念仏は無益であるとの教えがはびこっているが、そうした一念義は仏法にかこつけた邪義である』旨の返事を受け取つた」はなし。 

卷第卅では、法然上人の師でもある肥後阿闍梨皇圓(くわうゑん)について。「弥勒菩薩が未来にこの世に出現して衆生を救うまで、自分が修行をして衆生を救おうと、静岡県桜ヶ池に龍身入定した」はなし。湖畔の池宮神社の祭神は、皇圓阿闍梨大龍神で、秋の彼岸の中日に池の中に赤飯を奉納する「お櫃納め」の行事が営なまれるといふことです。現在は御前崎市になつてゐますが、ぼくがゐたころは小笠郡濱岡町佐倉にあつた池で、ぼくも何度か訪ねたことがあります。しかし、皇圓や法然上人と關係のあるところであるなんて、ちつとも知りませんでした。ちなみに、皇圓は、ぼくもお世話になつてゐる 『扶桑略記』 を撰したことで有名です。 

それと、南都を灰燼に歸して捕はれた平重衡が、出家することは拒否されましたが、法然上人に逢ふことをゆるされて救はれるはなし。 

最後は、「東大寺造營のために大勧進の聖の沙汰」で、法然上人に白羽の矢がたちましたが、上人が固辭し、代はりに俊乘房重源を推薦するはなしでした。 

また、おまけとして、上人の「やまとうた(和歌)」が一七首あげられてゐました。 

このやうに、歴史を學んでゐても、表面には出てこない法然上人ですが、むしろこの時代の通奏低音のやうに響き渡るキーパーソンではないかと思ひます。 

 

*濵岡在住當時の池宮神社と桜が池

 


 

 

 

八月一日~卅一日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

八月二日 〈あふさかこえぬ權中納言〉 (『高松宮藏 堤中納言物語』 所収 日本古典文学会) 

八月四日 嵐山光三郎著 『「下り坂」繁盛記』 (ちくま文庫) 

八月五日 梅棹忠夫著 『夜はまだあけぬか』 (講談社文庫) 

八月十日 森詠著 『死者の戦場』 (小学館文庫) 

八月十一日 〈貝あはせ〉 (『高松宮藏 堤中納言物語』 所収 日本古典文学会) 

八月十三日 保坂正康著 『あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書』 (新潮新書) 

八月十四日 半藤一利編著 『十二月八日と八月十五日』 (文春文庫

八月十五日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第廿九・卅』