五月廿六日(火)舊閏四月四日(己巳)  曇天ときどき小雨

 

今日は二か月ぶりの通院日。千代田線も三田線もすいてゐたし、病院でも入口でかんたんな檢査(體温確認と體調の聞き取り)を受けただけで、あとはふだんとかはらず。血液檢査、レントゲン、心電圖檢査を受け、みか先生もおかはりなく、診察もすんだ。 

ただ、順調に衰へてゐることはかくじつで、それにあはせた生活を築く、といつたらいいのか、從來の生活をとりくづすといふべきなのか、まあ讀書環境さへ崩壊しなければ、まあ、言ふことはないけれど。

 

歸路、新橋驛まで歩き、食後三田線で神保町にむかふ。久しぶりなので古書店街をあちこち歩きまはつたけれど、開店してゐる古書店は數軒のみ。文庫本二册百圓の店(アダルト本の店)と、澤口書店、それに老舗の一誠堂書店のみ! 渇きを潤せるほどではなかつたので、三省堂の中の古書館に行き、そこで多少は溜飲を下げることができた。 

それでも、一誠堂書店ではなじみの店員さんに會へたし、一册貴重な本を得ることができた。それは、『百錬抄人名総索引─平安中末期及鎌倉初中期政治資料─』(政治経済史学会) といふ資料で、監修者の言葉の中で、「多大の時間と労力とを要する『索引』作成の如き作業は、地味な努力の集積によってのみ成果を得るもの」であると述べられてゐるやうに、このやうな努力に報いるためには、これを活かせる讀書をすることだと肝に銘じた。 

また青砥驛の〈すし三崎丸〉に行つたらまだ閉店。それでも疲れたわりにはよく歩いた。なんと、今日の歩數は、一三三三〇歩だつた! だいぶ歩きすぎだつたかもしれない。 

 

ところで、昨夜、NHK・Eテレで、〈一〇〇分de名著選・『平家物語』〉 の最終回、その最後の數分が目にとまつた。そこでは、『平家物語』 は聲を出して讀むのがいい、と講師の方が語つてゐた。そこで、誘發されて、手持ちの 『平家物語』 の影印書を確認してみた。すると數種あるうち、『高野本 平家物語』(笠間影印叢刊 全十二册) と 『平家物語 百二十句本』(古典文庫 全六册) が持ち運びにも便利なので出してきた。そのうち、古典文庫(新書版)のはうは、「平假名本」なので、よみやすさうだ。しかも、聲を出して讀めさうである。さらに好都合なのは、新潮社の新潮日本古典集成(全三册)が、この 「百二十句本」 をテキストにしてゐることがわかり、『源氏物語』 と同樣に註釋書として參照できることだ。さつそく切り分けて分册にした。

 

ただし、これも 『源氏物語』 の「原文」と同樣、校註者の翻譯となつてゐて、假名が漢字にかへられ、句讀點も加へられ、濁點までも加筆されてゐる。逆に、漢字が假名にかへられてゐる文字もある。まあ、意味を理解しながら讀むのには便利ではあるけれど。 

それでも、冒頭の數頁を讀んでみたところ、俄然 『源氏物語』 よりは讀みやすいしわかりやすく、内容にのめり込む度合ひが違ふ。かといつて、源氏を中斷するわけにもいかないし、そもそも 『平家物語』 は講談社文庫版(高橋貞一校註)で二度讀んでゐるのだ。それでも衰へない魅力とはなんだらう。今度は、くづし字の平假名本である。かへつて讀みにくいところもあるけれど、漢字ではどのやうに書くかを確認しながら讀んでいきたい。 

 

 

五月廿七日(水)舊閏四月五日(庚午) うすぐもり

 

やはり疲れたのだらうか、今日は起きられずに終日ベッドで讀書。讀書といつてもうとうとと目がさめてはよみ、よんではまた目がふさがつてしまふといふていたらく。 

よんだのは 『平家物語 百二十句本』 であるが、文字についてだけ言へば、まるで 『源氏物語』 をよんでゐるかのやうである。一頁に二文字三文字ていどの漢字をのぞいてすべて變體假名ばかりだから、瞬時に意味内容を理解することはできないが、漢字ではどのやうに表記するのかを考へながらよむので、かへつてよみながすことがない。それに變體假名も 『源氏物語』 ほど凝つてはゐないので難しくない。つかへながらも聲に出してだいたいよみすすめるほどである。

 

それで、卷第一、「祇園精舎」 と 「殿上闇討」 までをよむ。有名な「祇園精舎」の調べにはじまり、榮華を極めた平淸盛の末路を暗示したところで、淸盛の先祖をたどる。とほくは桓武天皇までさかのぼり、淸盛の祖父と父の代におけるエピソードが語られる。父忠盛が鳥羽上皇によつて昇殿をゆるされたことをねたむ殿上人らにたいして、機轉を利かせ、忠盛とその子らの昇殿が暗黙の了解となつたところまで。いよいよ子淸盛の登場である。 

『平家物語』 と 『源氏物語』、それに 『宇治拾遺物語』 をしばらくは並行してよんでいかうか。

 

 

五月廿八日(木)舊閏四月六日(辛未) くもり夕方一時雷雨

 

昨夜は切りがいいところで、『源氏物語二十九〈行幸〉』(靑表紙本) をよみはじめた。『平家物語 百二十句本』 にくらべると文字が大きくてよみやすいけれど、また繰り返し思ふことだけれど、語句の意味がむずかしくてすらすらとはいかない。それでも七十九頁あるうち三十頁ほどよみ進んだ。 

 

*寫眞左より、『源氏物語〈行幸〉』、『宇治拾遺物語 卷第八』(江戸時代刊行の和本)、『平家物語 百二十句本』 それぞれの冒頭 

 

 

 

五月廿九日(金)舊閏四月七日(壬申) 晴、風がさはやか

 

『源氏物語〈行幸〉』 讀み進む。ぐんぐんよみ進んだ。『平家物語』 が待つてゐるとおもふと、集中力がぐぐつと増した。といつても内容は理解しずらくて、註釋書のお世話なくしてはたうていよめなかつた。

 

表題にある 「行幸」 は冒頭の數頁で描かれただけで、以下、 

行幸の行列見物に來てゐた玉鬘が、冷泉帝を一目見て、その美貌に釘付けになつたこと 

源氏が、玉鬘の裳着(もぎ・成人式)の準備に取り掛かつたこと 

大宮邸において、源氏と内大臣が久々の對面をはたし、舊交をあたためたこと。ちなみに、大宮(おほみや)は源氏の亡き妻・葵上と、内大臣の母親である 

そこで源氏は、玉鬘が内大臣(頭中將)のかつての愛人・夕顔の娘であることをつげる 

そして裳着の日、大宮や秋好中宮などからさまざまな贈り物が届くところまでよみ進んだが、ぼくは末摘花が玉鬘に贈つた、古めかしい物についてはともかく、添へられた文(ふみ)には心うたれた。源氏は古人(ふるひと)の出しやばりだと言つて、それをもばかにしたやうな態度を示してゐるけれど、なんともいい文章だとぼくは思つた。 

それと、この一連のはなしのなかに出てくる夕霧がいい。源氏と葵上の息子であるが、大宮に育てられたためか、とてもおとなしく、控へ目な姿が印象深い。紫式部の筆が冴えてゐると言つておきたい。 

 

 

五月卅日(土)舊閏四月八日(癸酉・上弦) 晴のちくもり

 

『源氏物語〈行幸〉』 を讀み終へた。靑表紙本で七九頁。『平家物語百二十句本』 とくらべると、別の言語かと思ふくらゐむずかしい、といふか、難解である。これは藤原定家の家の女子の筆によるのだらうが、帖によつて文字遣ひがことなり、變體假名がどうにかよめてもちんぷんかんぷんなのである。たとへば、末摘花が玉鬘に贈つた全文をそのまま寫す。

 

「しらせ給へき數にも侍らねハつつましけれとかかるおりハおもふたまへしのひかたくなむこれいとあやしけれと人にもたまハせよ」 

(御存じになる筈もない私ですから、お恥づかしいのですが、かうしたおめでたいことは傍觀してゐられないになりました。つまらない物ですが女房にでもお與へ下さい。與謝野晶子譯)

 

まあ、これは理解しやすいはうであるが、『平家物語』 と 『宇治拾遺物語』 にくらべたらまづ單語がむずかしい。敬語が難しいとよくきくけれど、それもあるのだらう。 

『源氏物語』 が、一一世紀初頭(一〇〇八年~頃)とすると、『平家物語』 は一三世紀前半(一二一二年頃~一三〇九年以前)、そして、『宇治拾遺物語』 は一二一三年~一二二一年の成立だから、『源氏物語』 とこれらの物語とは二〇〇年の年の差がある。この二百年の間に言葉が世俗化したとしか思へない。 

 

 

五月卅一日(日)舊閏四月九日(甲戌) 晴のち曇天

 

今日は、平家物語 百二十句本』 を再び讀みはじめた。すると、淸盛の父・忠盛の愛人が歌に堪能な女房で、その女房から生まれたのが忠度だといふことが書いてあつた。二度もよんでゐながらこんどはじめて知つた、といふか、すでに忘れてゐたことがあらためてわかつた。その部分を寫しておかう。

 

「かの女はう 雲ヰよりたゝもりきたる月なれはおほろけにてはいはしとそおもふ とよみたりけれはいとゝあさからすそおもはれけるさつまのかみたゝのりのはゝこれなり」

 

おなじ變體假名で、句讀點も濁點もなく、ときどき漢字が交じるだけの文章だけれども、『源氏物語』 とくらべたら月とすつぽんだ。ことばが時代とそれを使ふひとびとによつて淘汰され、みがかれてきたのだらうとぼくは理解したい。 

 

さういへば、薩摩守忠度の墓とその歌碑を訪ねたことを思ひ出した。それは、《中仙道を歩く》 の第八回、深谷宿から本庄宿までの途中にあるお寺であつた。二〇一三年九月十一日のことで、墓のはうは淸心寺、歌碑のはうは普濟寺にあつた。 

詳しくは、『 歴史紀行十九 中仙道を歩く(八) 』(深谷宿~本庄宿) 參照。以下、一谷(いちのたに)の戰ひで、忠度が、源氏方の岡部忠澄によつて四十一歳で討死した場面、「忠度最期」(講談社文庫・流布本系)の全文をかかげておく。

 

*寫眞は、左が淸心寺の山門、右は忠度の墓

 


 

薩摩の守忠度は、西の手の大將軍にておはしけるが其の日の装束には、紺地の錦の直垂に、黑絲縅の鎧著て、黑き馬の太う逞しきに、沃懸地(いかけぢ)の鞍置いて乘り給ひたりけるが、其の勢百騎ばかりが中に打圍まれて、いと騷がず、控へ控へ落ち給ふ所に、ここに武藏の國の住人、岡部六彌太忠純、好き敵(かたき)と目を懸け、鞭鐙を合せて追つかけ奉り、「あれは如何に、好き大將軍とこそ見參らせて候へ。まさなうも敵に後(うしろ)を見せ給ふものかな。返させ給へ」と詞(ことば)を懸けければ、「これは御方(みかた)ぞ」とて、ふり仰ぎ給ふ内甲(うちかぶと)を見入れたれば、鐵漿黑(かねぐろ)なり。「あつぱれ味方に、鐵漿(かね)つけたる者はなきものを。如何樣(いかさま)にも、これは平家の公達(きんだち)にてこそおはすらめ」とて、押並べてむずと組む。これを見て百騎ばかりの兵(つはもの)ども、皆國々の驅武者(かりむしや)なりければ、一騎も落ち合はず、われ先にとぞ落ち行きける。薩摩守は聞ゆる熊野育ちの大力(だいぢから)、究竟(くつきやう)の早業にておはしければ、六彌太を(つか)うで、「にくい奴が、御方ぞと云はば云はせよかし」とて、六彌太を取つて引寄せ、馬の上にて二刀(ふたかたな)、落付く所で一刀(ひとかたな)、三刀(みかたな)までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なれば通らず、一刀は内甲へ突入れられたりけれども、薄手(うすで)なれば死なざりけるを、取つて押へて頸をかんとし給ふ處に、六彌太が童(わらは)、後馳(おくれば)せに馳せ來つて、急ぎ馬より飛んで下り、打刀(うちがたな)を拔いて、薩摩守の右の肘(かひな)を、臂(ひぢ)のもとよりふつと打落す。薩摩守今はかうとや思はれけん。「暫し退け、最期の十念唱へん」とて、六彌太を(つか)うで、弓長(ゆんだけ)ばかりぞ投げ退(の)けらる。其の後西に向ひ、「光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨」と宣ひも果てねば、六彌太後(うしろ)より寄り、薩摩守の首を取る。好い首討ち奉つたりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるが、箙(えびら)に結ひつけられたる文(ふみ)を取つて見ければ、旅宿の花と云ふ題にて、歌をぞ一首詠まれたる、

 

  行き暮れて木(こ)の下陰を宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし 忠度

 

と書かれける故にこそ、薩摩守とは知りてげれ。やがて、首をば太刀の鋒(さき)に貫き、高く差上げ、大音聲を揚げて、「この日頃日本國に鬼神と聞えさせ給ひたる薩摩守殿をば、武藏の國の住人、岡部六彌太忠純が討ち奉つたるぞや」と、名乘つたりければ、敵(かたき)も御方もこれを聞いて、「あないとほし、武藝にも歌道にも勝れて、よき大將軍にておはしつる人を」とて、皆鎧の袖をぞ濡しける。 

 

以上の本文によつて、なぜ淸盛の弟である忠度の墓と歌碑が、「武藏の國の住人、岡部六彌太」の領地の寺にあるかがよくわかつた。さう言へば、高崎線の深谷驛のつぎは岡部驛である。岡部六彌太忠純の領地だつたところだ。ただ、ほかにも、明石市には忠度の墓と傳はる「忠度塚」があり、神戸市長田區には忠度の「腕塚」と「胴塚」があるといふ? 

 

*寫眞左の、右は、「百二十句本」、左は、新潮日本古典集成の「原文」

 それと、忠度の歌碑 

 


 

 

五月一日~卅一日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

 

二日 田中小実昌著 『ないものの存在』 (福武書店) 

六日 田中小実昌著 『くりかえすけど』 (銀河叢書 幻戯書房) 

十一日 田中小実昌著 『ほのぼの路線バスの旅』 (中公文庫) 

十二日 『宇治拾遺物語 卷第六 (第一話~第九話) 

十三日 田中小実昌著 『バスにのって』 (青土社) 

十六日 紫式部著 『源氏物語二十六〈常夏〉』 (靑表紙本 新典社) 

十七日 紫式部著 『源氏物語二十七〈篝火〉』 (靑表紙本 新典社) 

十七日 殿山泰司著 『バカな役者め!』 (ちくま文庫) 

十九日 藤森照信著 「今和次郎著 『日本の民家』 解説」 (岩波文庫) 

廿日 藤沢周平著 『消えた女─彫師伊之助捕物覚え─』 (新潮文庫) 

廿二日 藤沢周平著 『漆黒の霧の中で─彫師伊之助捕物覚え─』 (新潮文庫) 

廿二日 『宇治拾遺物語 卷第七』 (第一話~第七話) 

廿四日 藤沢周平著 『ささやく河─彫師伊之助捕物覚え─』 (新潮文庫) 

廿五日 紫式部著 『源氏物語二十八〈野分〉』 (靑表紙本 新典社) 

廿五日 キケロ著 『老境について』 (ワイド版 岩波文庫) 

卅日 紫式部著 『源氏物語二十九〈行幸〉』 (靑表紙本 新典社)

 

 

五月に買ひ求めた本

 

四日 田中小実昌著 『ほのぼの路線バスの旅』 (中公文庫) 

七日 田中小実昌著 『バスにのって』 (青土社) 

七日 田中小実昌著 『田中小実昌紀行集』 (JTB) 

廿六日 彦由一太監修 『百錬抄人名総索引』 (政治経済史学会)