五月六日(水)舊三月十四日(己酉) 曇天のち小雨、夕方から激しい雷
小実さんの 『くりかえすけど』 讀了。わるいけれど、十篇の短編のうち、おしまひのはうの 「カラカスでたこ八郎」 と 「トノさん」 がもつともわかりやすくて面白かつた。
たこ八郎については、ぼくはテレビで何度も見たことがあるし、突然海のなかで死んだといふニュースにもおどろいたことがあつた。そのたこ八郎と小実さんがなかよしだつたことがここに書かれてゐた。
たこ八郎と高校のときからなかよしだつた安久津さんから聞いたらはなしとして、
「高校のときから、清作(たこ八郎の本名)はコメディアン志望でしてね。ところが、プロボクシングの日本フライ級チャンピオンになつてしまった。しかも、小児麻痺でナックル(こぶし)をつくることもできず、かたっぽうの目は失明してたという・・・・・」
そのたこ八郎がストリップが好きで、「ぼく(小実さん)もたこ八郎一座にはいり、ストリップ小屋をまわる旅にでたりした」といふ、けつこう濃厚な仲だつたのだ。
そんなたこ八郎について、小実さんは、
「たこ八郎は舌ったらずのしゃべりかたで、世間ではたこちゃんをバカの代表みたいにおもっていた。はなす言葉も吟味するひとだった。ひとつひとつの言葉も吟味し、だから、言葉はぽつりぽつり、舌ったらずでバカみたいにきこえたのか。
だれでもはなしてる言葉を、おうむがえしに、反省も吟味もなくくりかえしているのが、世間のふつうの言葉で、それをいちいち自分で吟味しだすと、バカじゃないかとおもわれる。
たしかに、ほとんどの人たちはたこ八郎がたいへん聡明な男だということを知らなかったが(知ろうともせず)それにたいして、たこ八郎はいちいち弁明したりしなかっただけのことだ。めんどうくさかったのだろう」
また、 「トノさん」 とは、殿山泰司、つまりタイちやんのことで、小実さんとは飲みともだちだつたやうだ。で、またタイちやんが讀みたくなつた。
五月七日(木)舊三月十五日(庚戌・望) 晴
「毛倉野日記(四十七)」(一九九八年二月) を仕上げる。やはりラムが出てきたので早い! また、ちやうど五十一歳の誕生日を迎へたときで、まだまだ元氣だつたんだなあと我ながら感心してしまつた。
さらに、「毛倉野日記(四十八)」(一九九八年三月) を寫しはじめる。
小実さん、つづいて 『ほのぼの路線バスの旅』 を讀みはじめる。遠出ができないので、小実さんのバス旅につきあふのもいいかも知れない。
内容紹介・・・バスが大好き――。路線バスで東京を出発して箱根を越え、東海道を西へ、もっと西へ。山陽道をすぎて熊本、鹿児島まで。いい景色、いい飲み屋、いい人びととの出会い。ゆるり、ぶらり、ふらふら、コミさんのノスタルジック・ジャーニー。
また、注文した小実さんの 『バスにのって』 (青土社) と 『田中小実昌紀行集』 (JTB) が屆く。
五月八日(金)舊三月十六日(辛亥) 晴のちくもり
「毛倉野日記(四十八)」(一九九八年三月) も進み具合がよくて寫し終へ、さらに「毛倉野日記(四十九)」(一九九八年四月) にかかる。
ちよいと調子にのりすぎてゐる感もするので、送付は少し間をおきたい。
小実さんの 『ほのぼの路線バスの旅』、東京から路線バスを乘り繼いで東海道をのぼつて行くのだ。しかも曰くありげな女性とである。が、ところどころで、哲學小説ふうになるところが、どうも小実さんらしいところかな。
藤枝からバスで御前崎、濱岡、菊川、掛川と乗り繼いでいくところが懐かしかつた。
五月九日(土)舊三月十七日(壬子) 晴のち曇り
今日は持ち物をかたづける。やつとその氣になつたといつたところか。ただ、持ち物といつても、ぼくの場合は、本を除けば文房具類だけである。服は妻の管理下におかれ、すでに手で持てるくらゐに選別されてゐる。だから問題は本だけなのだが、それがなかなか進まない。せめて文房具をかたづけることで身邊を整理したいと思つたのだ。
たいへんなのは、要するに選別なのである。このペンはこれからも使ふであらうか。いや、使はなくてもとつておきたいなどと言ひだすと全然かたづかない。
よく「断捨離」といふことを聞くが、ちよいと調べたらなんだか大仰な思想みたいなのでおどろいた。
つまり、「断捨離は、『もったいない』という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、
断:入ってくるいらない物を断つ。
捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
離:物への執着から離れる。
として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である」といふのである。まあね、たしかに、
「モノが増えてきたから捨てればいい、ではなくて、自分にとって『本当に必要なもの』を見つめ直そうとするのが断捨離」とくれば、立派な人生訓だな、これは。
でも、ぼくのばあいは、見苦しいものをあとに殘したくないからといふのがある。コロナでコロリといつてしまふかもしれないし、せめて平均壽命までは生きたいとおもつてはゐるけれど、明日をも知れぬ命だから、あとくされなく最期を迎へたい。
今日も、倉野日記(四十九)」(一九九八年四月) にかかりつぱなし。いよいよラムが我が家に來ることになつた。そのいきさつは?
小実さんの 『ほのぼの路線バスの旅』、よく讀んだら、京都三條大橋まで、十年かかつたといふから驚きである。行つてはもどり、戻つては前回の場所からまたスタートするといふ旅は、ぼくも經驗があり、三年半かかつて中仙道を歩き通したことがある。それを通しで實行したかのやうな書き方は、ちよいとやりすぎではないのか、とおもつたが、小実さんだからゆるしてあげる。
さらに、新神戸から西への路線バスの旅はつづき、地圖が手放せない。
五月十日(日)舊三月十八日(癸未) 晴
今日もかたづけ續行。背の筋が張るので疲れるが、昨日は文房具、今日は手紙類と寫眞類の選別處理が終はつた。あとは、書類だ。
そのなかから、紛失したと思つてゐたスイス・ドイツ旅行のパスポートが出てきた。また、慈惠大學病院で毎回いただく「檢査結果」のファイルがまとまつてみつかり、それによると、BNP値が二〇一三年には二〇〇だつたのが、二〇一七年には三八〇、先日は五〇〇を超えてしまつたから、やはり、わるくなつてきたのは、中仙道を歩いたときの酷使が大きな原因に違ひない。もちろん悔いこれつぽつちもないが。
といふわけで、小実さんの 『ほのぼの路線バスの旅』 もなかなか前進しない。山陽道中バス膝栗毛の章で、小実さんは次のやうに述べてゐる。
「ぼくはニホンでもたいへんにヒマな男のひとりだが、それでも、たとえば映画の試写を見るときは東京にいなくちゃいけない。そんなことで、バスにのっては二日か三日かほどふらふらし、そのあと東京へかえる。そして、また東京からでてきてバスにのるをくりかえしてきた。わらわないでいただきたいが、さいしょにバスにのったのはもう二十年もまえのことだ」
そして、バスを乘り換へるたびに飲み屋をはしごして、ご當地の美味しいものを紹介してくれてゐるのがまた樂しい。
そのなかで、ぼくが初めて知つたことがある。呉の音戸の瀨戸は、平淸盛が嚴島神社に參拜する近道に作つたといふのである。「ただ人力だけで土を掘り、海の運河をつくった。音戸の瀨戸をわたるたびに、あそこだけ、海の底の色がちがっているのを、ぼくは感じていた」と小実さんは書いてゐる。その呉で少年時代を過ごした小実さんならではの指摘であらう。
「倉野日記」 を寫してゐると、上京するたびに外食をしてゐる。外食が今にいたるまで好きなのは、この毛倉野生活が尾を引いいてゐるのではないかと思ふ。また、それは妻がゆるしてくれてゐるからで、現在でも、出かけるなら夕食も食べてきてねと言ふことからも理解できる。むろん、妻の料理は美味しいが、ぼくが外で食べることで、妻の負擔が少しでも少なくなるならと實行中! いや、このひと月は外出もしてゐないが・・。
ところで、一九九八年四月十三日(月)に 持ち主から、「ラムをもらつてくれないかといふ」はなしがもたらされたことが記されてゐるが、ことは簡單にはすまないのだつた。
それでもラムは我が家の一員になつたけれども、このときはまだしつけとか訓練することなど考へてもゐない。
五月一日~十日 「讀書の旅」 (『・・・』は和本及び變體假名・漢文)
二日 田中小実昌著 『ないものの存在』 (福武書店)
六日 田中小実昌著 『くりかえすけど』 (銀河叢書 幻戯書房)