月廿一日(日)舊五月朔日(乙未・朔・夏至) 雨

 

再び、『史料綜覽卷二 平安時代之二』 を讀みはじめた。すると、いままでのやうにすらすらと讀み流せなくなつてゐるのに氣がついた。

その理由のひとつは、その日その日の事項の引用、といふか、出典が 『小右記』 だつたとすると、「右大臣として朝廷の動向のほとんど全てを知り得る立場にあった實資」の日記だから、この文面の奥にどのやうな事実とその經過が秘められてゐるのかが氣になること。ふたつめは、人物の名が記されてゐると、それがどのやうな人物であるのかを調べたくなつてしまふこと等々で、急いで讀んではもつたいないことに氣づいたのである。

たとへば、「長元四年(一〇三一年)三月一日、式部卿宮敦平親王ノ事ニ依リテ、藤原惟憲ヲ勘責シ、源良國ヲ捕縛ス (小右記)」、とあると、これは藤原實資の 『小右記』 を典據とした事實であることはわかるが、「式部卿宮敦平親王ノ事」とはどのやうな事件なのか、またそれによつて何故、惟憲が勘責されなければならなかつたのかはわからないし、またどうして源良國なる人物が捕縛されなければならなかつたのかも皆目わからない。

このやうなときこそ、「大日本史料」がいかされるはづなのだが、その二編が途中までしか刊行されてをらず、手持ちの最後の部分は、その第二編之二十八(長元元年十一月─長元二年九月 後一条天皇)までなので、あとちょいとのところで追ひつかない。ただ、第二編は、三十二(~長元五年)まで刊行されてゐることがわかつてゐるので、できればはやく入手したい。

 

といふわけで、すぐに「大日本史料」は讀めないけれども、昨日讀み終へた繁田信一さんの 『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』 のなかに、ちやうど、このことの眞相が述べられてゐて、じつは藤原惟憲が、「鎮西の国々にあった財宝を一つ残らず略奪した、もはや、恥を忘れたかのやう」な人物であつたことが明らかにされてゐたのであつた。さうすれば、「式部卿宮敦平親王ノ事」もただならぬ事件であり、捕縛された源良國は濡れ衣だつたかもしれないといふことがうかびあがつてくるのである。

もつとポピュラーなところでは、同年「六月六日、是ヨリ先、源賴信、平忠常ヲ隨ヘテ美濃ニ入ル。是日、忠常病死ス (左經記、他)」、とあることなど、ほんとうに病死なのか、「平忠常の亂」の首謀者として、都に連行する前に殺してしまへといふ命令を受けてゐたかもしれないのである。そんなことを想像しながら讀んでいくと、たとへ眞相がうかがへないまでも、へたな小説よりもおもしろい!

 

 

六月廿二日(月)舊五月二日(丙申) 雨、肌寒い

 

妻がいきなり、「わたしたちのからだつて權外なのよ」、と語りかけてきた。なんのことかと思つたら、エピクテートスなのである。

圖書館から 『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね』 といふ本をかりてきたら、これが大當たりで、いい本に出會へたことで大喜び。語りかけてくるそのたびにぼくの思考は中斷させられたけれど、ここをじつと耐へるのが夫婦愛といふものなのであらう。書庫から、エピクテートスの 『人生談義 上下』(岩波文庫) を出してきて、つきつけたりしないで、そつと、こんなのもあるよと言つてさしだした。

 

『史料綜覽卷二 平安時代之二』 が、長元の時代が終つて長暦(一〇三七年)に入つたら、すでに 『小右記』 を出典とする時代が過ぎ、『左經記』 その他にかはつてきた。

で、自作の「古記録年表」をひろげたら、この時代の古記録(日記)に、『春記』 があることに氣づき、すぐ取り出して開いてみたら、ちやうど長曆二年からはじまつてゐるではないか。『史料綜覽卷二』 のはうは、年表だから要點といふか目次風にしか記してゐないが、『春記』 は日記の本文であるから、ほぼ毎日の出來事がこまかに記されてゐる。

それも、ぼくが讀むのを待つてゐたかのやうに、ちやうど讀みすすんだ、『史料綜覽卷二』 の長曆二年(一〇三八年)六月二十日に、「左近衞中將藤原資房ヲ藏人頭ニ補ス」とあり、『春記』 の著者の昇進の記事が目に入つた。そして、この十月から、天喜二年(一〇五四年)までの 『春記』 の記録がはじまるのである。

藤原資房(すけふさ)は、『小右記』 を書いた實資を祖父にもつ、「古儀に詳しい小野宮家の流れをくむ深い知識を持った」人物で、「この日記の大部分は後朱雀天皇の世」で、天皇は資房より二歳年下だつたのである。

 

本書は二〇一二年十二月に求めてをり、書名は 『訓読 春記』。漢文を訓讀文に譯してくれてゐるのはいいけれど、現代語譯ではないので、漢文臭さを濃厚に保持してゐる

しかし、編者の赤木志津子さんによると、「資房は長曆二年藏人頭(くらうどのとう)となり、五年の後長久三年(一〇四二)三十六歳ではじめて參議となり公卿に列した。その役どころは平安政治そのもので、この記録は全卷を通して摂関時代の天皇、摂政、或いは関白の下に政治がいかに運営されていたかをあらわして余すところない」、とおつしやつてゐる。

『史料綜覽卷二』 のうち、とくに氣になつたところだけ拾ひ讀みしようとおもつたが、むしろ、『春記』 を主にして讀み通してみたい。それで、文頭から非常に興味ある記録に遭遇してしまつた。

 

讀みはじめてみて、これは何のことかなと首をひねつてしまつたが、霧がはれるやうにして次第に書いてゐることがわかつてきた。それは、齋宮(齋王)の「群行」途上の記録なのである。群行に同行した藏人頭資房の目からみたそのありさまは、「齋宮」に足を運んだことのあるぼくも當然關心があつたけれど、調べるすべもなかつたことであつた。

さらに、「齋宮」への經路について調べたら、そこに、次のやうにあつたので、これまたびつくりした。

「群行(ぐんこう)・・・飛鳥・奈良朝の経路は不明だが、平安朝では長奉送使(ちょうぶそうし)以下の官人に付き添われ、近江国府、甲賀、垂水、鈴鹿、壱志の各頓宮を経て、伊勢国多気郡の斎宮に入る。この56日の旅程は群行と称し、南北朝期に斎王制が自然消滅するまで、大伯皇女から数えれば64名の斎王が卜定され、49名が伊勢に派遣された。

群行の実際の行程を語る史料は少なく、長暦2年(1038年)の斎宮良子内親王の群行の際に同行した藤原資房が、その日記 『春記』 に伊勢までの道程を詳しく記録しているのがほぼ唯一のものである」

「十月一日 朝の間天霽(はれ)。時に微雨、夜に入って風あり。巳の刻許り壱志を立たしめ給う。申の時許り鈴香に着く。国司儲(ご馳走の用意)あり云々」。二日 「同じ(卯)時許り、鈴香を立」ち、「午の時許り垂水の頓宮に着く。申の時許り甲賀の頓宮に着き給う」。三日 「辰時許り此の頓宮を立たしめ給い、午時勢多に着き給う。申の終り許り京に帰り給う」。

 

とあることによつて、この「ほぼ唯一の」記録が、齋宮(齋王)良子内親王を齋宮まで送り届けたあとの、官人だけの歸路の記録であることがわかつてきた。途中の出來事は省いたが、国司との應對は、たぬきの化かし合ひのやうでおもしろい。

尚、「斎王の帰京の際の経路については、天皇が譲位の場合には元の近江路を戻るが、天皇や斎王の身内の死去による帰京の場合には、壱志からは斎王は伊賀路を進んで、都祁山を越えて奈良に入り、木津川を下って難波津に出て河内国の茨田頓所にて禊を行った後に帰京したと伝えている」。

 

*群行路圖と、齋宮跡と齋宮歴史博物館を訪ねたときの寫眞

 


 

 

六月廿三日(火)舊五月三日(丁酉) 曇天のち晴

 

今日は通院日。外來入館のチェックについては前月と同じ。今回は心電圖がなくて血液檢査だけ。みか先生には、最近の具合をつたへたら、一度ためしたけれど合はなかつたのでやめてゐたクスリを再び服用することになつた。豫約時間より三〇分もおくれての診察だつたので、病院をあとにしたら正午をすぎてゐた。途中でおひるを食べ、地下鐵を乘り繼いで湯島驛下車。不忍池を横斷し、上野動物園を通り抜けて東博に行かうとしたら、動物園は豫約制でその場では入れず。そのまま公園を通つて噴水廣場に出たら、東博も科學博物館も休館といふ。仕方がないので、木陰のベンチで讀書。汗ばんでゐたので、風がさわやかに感じられた。

 

今日は、妻にすすめられた、山本貴光・吉川浩満著 『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え』(筑摩書房) を持ち歩き、ベンチで讀み通してしまふ。エピクテートスの 『人生談義 上下』(岩波文庫) はもうだいぶ前に求めてゐたのだが、わけのわからない言葉が續出したので、中斷したままだつたのだ。それで、本書をすすめられるままに讀んでみたら、たしかにわかりやすくて、「權内」・「權外」の意味もわかつた。

要は、「われわれの 『権内にあるもの』 と 『権外にあるもの』 を区別すること」。なぜなら、「この世の悩みの多くは、権内にあるものと権外にあるものの区別の混乱にある」からである。

 「『権内にあるもの』 とは、自分でコントロールできるもの。『権外にあるもの』 とは、自分ではコントロールできないもの」のことである。

その 「権外にあるもの」 をどうにかしようと四苦八苦したり、いつまでも惱んでゐるより、權内にある唯一の能力である、理性的能力を驅使して自分にできる役割をはたしていくことが大事である、といふのである。しかり。

ところが、「われわれの権内にあるものと権外にあるものの区別」がけつこうむずかしい。たしかに。

今日の歩數は、九六〇〇歩であつた。この結果は「權内」の努力か? 

 

*上野公園と、新設なつたJR上野驛の公園口附近

 


 

 

六月廿四日(水)舊五月四日(戊戌) 曇天

 

藤原資房の日記 『春記』 がおもしろい。とはいへ、おそらく二割か三割ほどしか理解できてゐないだらう。訓讀文につまづきつつも、さらに困難なのが、筆者が何を問題にして書いてゐるのかがわからないことが多いのである。

それでも、年表にはかならず記されてゐる、「延暦寺僧徒強訴」の記事はだいたいわかつた。先の、「群行」からもどつて十日ほどした、長曆二年(一〇三八年)十月十二日のことである。

「関白(賴通)、明尊を以て深く座主に補すべきの心あり。是れ第一の者たるに依るか。其の理無きにあらず。然れども末代の故、此の事に依り一山の仏法亡滅すべし。一僧の事に依り、満山破亡、甚だ愁なり」、と、筆者が自身の感想を加へてゐるところがこの日記の魅力でもあるのだが、これは、圓城寺の明尊を天台座主に任命しようとした關白賴通にたいする、延暦寺からの猛烈な反對運動が勃發した事件の、その現場にゐた藏人頭藤原資房のレポートである。

 

そもそも、藏人とは、「朝廷の機密の文書・訴訟をつかさどり、天皇の衣食・起居のことから詔勅の伝達、宮中の諸儀式、行事、事務、その他宮中のいっさいのことを扱った」といふ役職の、しかもその「頭」なのだから、集まる情報量ははんぱではない。

しかして廿六日 「人々云う、明日天台の僧徒数千人下山し、公門に立って申し愁うべしと云々。若し実あらば、明日早く参内し、其の案内を告げ来たるべしと。大いに聞き驚く事也」

廿七日 「今日天台僧徒等二三千人下山、公門に立って申し愁うべしと云々。五六百人許り左近馬場に群衆すと云々。山僧等愁訴をなさん為悉く罷下る、之を如何為ん」

と、まあ、これは當時の概略を知つてゐればこその面白さだけれど、日常的な政務の詳細の記事はお手上げ状態である。それで、この時代の樣子を記した參考書を讀んでみた。

 

土田直鎮著 『日本の歴史5 王朝貴族』(中公文庫) の 「欠けゆく月影」 の章には、藤原道長亡き後の時代を、「ひとたび満ちた月は、やがて欠けてゆかねばならない。・・・多くのすぐれた娘を持った道長にくらべて、賴通はきわめて不運で、後朱雀天皇即位のときまでには、ひとりの娘も待たなかった。・・・皇子の誕生という、まったくの偶然に一家の政治的地位をかけた摂関家は、道長時代のきわまりない繁栄に引きかえて、次代賴通に至ってことごとく思惑がはずれ、まさに運命の手に翻弄されるのである。・・・かくして摂関家の衰運は、ついにおおうべくもない」

そのやうな時代に、後朱雀天皇と關白賴通のそばに仕へた、藏人頭藤原資房自身も翻弄されながら、出來事を記録しつつ、個人的な感想を述べてゐるのが興味深い。「はなはだ奇怪の事なり」とか、「極めて見苦しき事也」とか、もつともきびしい指摘は、一日の行事といふか儀式がすんだのち、「惣じて今日毎事等閑に似たり。是れ世の作法、執柄其の心を入れざるの故也。指弾すべし々々」、とつぶやいてゐるところがなんとも好ましい。役人、この場合は關白だが、心をこめて仕事をしてゐないのは、むかしも今も普遍的眞理なのだ!

 

 

六月廿五日(木)舊五月五日(己亥) 雨のちやむ

 

新車が來た。十年ぶりに買ひ換へた車は、同じ三菱で、座高がとても高い。最近は、我が家で使用する以上に、近所の知合ひや、ひとり住まひの老人の用に供することが多く、今までの車では乘り降りに頭をぶつけてしかたなかつたのであつた。まあ、換へる必然性といへばそんなところで、手續きのことはすべて妻がおこなつてくれた。さういへば、ナンバーが 「葛飾」 にかはつた!

 

土田直鎮著 『王朝貴族』 につづいて、古瀬奈津子著 『シリーズ日本古代史6 摂関政治』 (岩波新書) のうち、「第六章 賴通の世から 『末世』 の世へ」 を讀む。こちらのはうは、「賴通が受け継いだ世」、「荘園の発達と公卿たち」、「『武士』登場の系譜と摂関家」、「『末法の世』のはじまり」、そして、「おわりに『古代貴族』と『律令国家』の終焉」 といふ各節によつて、古代の幕がいかに下ろされ、中世へと時代が進んでいつたか、その概略がしめされてゐた。つまり、王朝時代から院政、さらに 『平家物語』 の時代への橋渡しがなされてゐて、たいへん參考になつた。と言っても、三年前に讀んでゐたのにまつたく覺えてゐないのもなさけない。

 


 

 

六月一日~廿日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

 

二日 林丈二著 『猫はどこ? 街歩き猫と出会う』 (廣済堂出版)

八日 東京大學史料編纂所編纂 『史料綜覽卷一 平安時代之一』 (東京大學出版會)

八日 五味文彦著 『平家物語、史と説話』(平凡社選書) のうち、「第三章 記録と史書のはざま」

十日 山中裕著 『平安人物史』(東京大學出版會) のうち、「第五章 敦康親王」と「第六章 敦明親王」

十二日 酒井みさを著 『上東門院の系譜とその周辺』 (白帝社)

十三日 紫式部著 『源氏物語三十〈藤袴〉』 (靑表紙本 新典社)

十五日 路上観察学会 『路上観察 華の東海道五十三次』 (文春文庫ビジュアル版)

十七日 繁田信一著 『殴り合う貴族たち』 (角川文庫)再讀

十八日 紫式部著 『源氏物語三十一〈眞木柱〉』 (靑表紙本 新典社)

十八日 大野晋・丸谷才一著 『光る源氏の物語(上)』 (中公文庫)

廿日 繁田信一著 『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』 (柏書房)

廿日 セネカ著 『幸福なる生活・他一篇(人生の短さについて)』 (岩波文庫)再讀

廿三日 山本貴光・吉川浩満著 『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え』 (筑摩書房)

廿四日 土田直鎮著 『日本の歴史5 王朝貴族』 (中公文庫) のうち、「欠けゆく月影」の章

廿五日 古瀬奈津子著 『シリーズ日本古代史6 摂関政治』 (岩波新書) のうち、「第六章 賴通の世から 『末世』 の世へ」 と 「おわりに『古代貴族』と『律令国家』の終焉」