二月六日(木)舊正月十三日(己卯) 快晴、風が冷たくて寒い

 

今日は、川野さんに誘はれて、東武東上線ときわ台驛にある〈日本書道美術館〉を訪ねた。昨日、池袋西武の古本まつりに行くことを傳へたら、一緒に行かうといふことになつたのだ。 

池袋驛から數驛、ときわ台驛におりたら、そこは、二〇一七年四月十二日に、《東京散歩》の〈コース番號3〉(川越旧街道を歩く ときわ台駅~下板橋駅)で歩いたスタート地點だつた。たしか、その時〈日本書道美術館〉を訪ねたところが閉まつてゐたのを思ひ出した。 

はたして、入館料一〇〇〇圓。新春特別展で、どこが特別なのかよくわからなかつたが、「唐詩百選展─書で味わう唐詩の情景─」といふ、ほとんど意味のわからない漢字の唐詩である。「白髪三千丈・・・」と「春眠不覺曉」の、詩の冒頭だけがわかつただけで、その他の詩はちんぷんかんぷん! 少し勉強してから訪ねたらよかつたのかも知れないが、まあ、なんとも言へない味はい深い書にも出會ふことができたのでいいことにした。 

せつかくなので、『最新 細字自習帳 かな篇』 と 『最新 細字自習帳 行書篇』 の二册を買ひ求めた。書道とは言はないが、お習字くらゐはつづけたい。

 

ちやうどお晝時だつたが、つづいて古本まつりを訪ねた。川野さんとは、時間を決めて別行動、一時間ほど探書に没頭。だが、求めるものはなく、今ごろ求めても遲いのだが、石川忠久著 『漢詩への招待』 を發見。なんと著者の署名入りの文庫本だ。 

東武百貨店一二階の天龍では、お晝時をはづしたのだが、入口でしばらく待たされ、それでも餃子ライスとエビチリをぞんぶん食べることができて大滿足だつた。

 

さらに、川野さんのご希望で、根岸の〈子規庵〉と〈書道博物館〉を訪ねた。〈書道博物館〉には何度もきたけれど、〈子規庵〉には入つたことがなかつた。 

實は、ぼくは子規があまり好きでない。『古今和歌集』 を、といふより、いくら堕落した和歌(短歌)界だつたとはいへ、庶民の歌への關心と和歌を樂しむ習慣をもなぎ倒してしまふやうな和歌批判の仕方に反發を覺えたからだが、ぼく自身、『梁塵秘抄』 を讀んでゐて、ちよいと考へを變へてきた。 

だからといふわけではないが、川野さんとともに〈子規庵〉に入つてみた。昔風の平屋の民家である。入庵料五〇〇圓。たしかに、子規がここで晩年、といつてもわづか三十四歳と十一カ月で死んだ子規が、「命の炎を燃やし尽くした家」である。むろん建てかへられた家だが、しばらく心を鎭めてぼくもその家の空間に身を浸してみた。 

ずつと以前、少し讀みかじつてはゐたが、あらためて、『松蘿玉液』、『墨汁一滴』、『病牀六尺』、『仰臥漫録』 を讀んでみたいと思つた。

 

その子規の友人の一人、洋畫家で書家でもあった中村不折が昭和十一年に開設したのが、〈子規庵〉の目の前にある〈書道博物館〉で、「不折が独力で収集した日本・中国書道史研究上重要なコレクションを展示する」けつこう見どころの多い博物館である。が、現在は、「生誕五五〇年記念 文徴明とその時代」といふ、ぼくの勉強の世界とはまつたく接觸のない企畫の展示がなされたゐた。ちよいと惜しい。 

川野さんとは、上野驛で別れ、ぼくは京成で歸路についた。久しぶりに知的刺激に滿ちた一日だつた。 

今日の歩數は、八四九〇歩、まあ、いい散歩にはなつた。

 

 

子規庵、晩年の四大隨筆が書かれた室内と庭

 



 

二月七日(金)舊正月十四日(庚辰) 晴、寒い

 

昨夜、正岡子規晩年の四大隨筆である、『松蘿玉液』、『墨汁一滴』、『病牀六尺』、『仰臥漫録』 の巻末の解説をすべて讀んでみた。それぞれ、加賀乙彦、粟津則雄、上田三四二、阿部昭が書いてゐる。 

例へば、加賀乙彦は、隨筆を讀んだとき、「何だか六十過ぎの老人の文章のような気持で読んだのを思い出す。・・・人生を異常な速さで過ごし、老成した人の文章だと思う。・・・ここに見られるのは、病床にあって強く濃く生きた人の記録である」と書いてゐる。他の三人もほぼ同様の感想を述べてゐるが、ぼくが讀みかじつたときにも感じた思ひである。 

 

今朝、ノラ猫のために出してあるベランダの水が氷つてゐた。實に久しぶりのことである。ただ、日中の日差しは暖かく、猫と戯れながら、『梁塵秘抄』 と 『朝霧の賊 禁裏御付武士事件簿』 を讀み進む。 

 

夜、五十嵐さんから電話があり、リモートサポートを得て、デスクトップパソコンの送受信のエラーを直していただく。しかしそれでも不具合で、ノートパソコンと同じアウトルックに變更することにして、明後日にリモートサポートで操作することになつた。

 

夜、またアマゾンで映畫を見た。“ルーシー” といふ題で、これも以前見たことがあつたが、CMなしのノンストップ。映畫は通して見てこそ味はい深い。

10%しか機能していないと言われる人間の脳。しかしルーシーの脳のリミッターは外されてしまった――」といふ内容である。

 


 

 

二月八日(土)舊正月十五日(辛巳) 晴、今日も寒い

 

今日は、古本散歩。まづ、神田と高圓寺の古書會館を訪ねた。いつものやうに、神田では和本と影印書が數册なのに、高圓寺では、宅配便で送つてもらはねばならないほどの収穫があつた。といつても、數が多かつたのではなく、持ち歸るには大きすぎたからであつた。 

和本は、『念佛名義集』、影印書は、『影印 車僧草子』(京都帝國大學)、『夢の通ひ路物語』(古典研究會)、本居宣長著 『出雲國造神壽後釋』(和泉書院影印叢刊)、それに、樋口一葉著 『寫眞版 たけくらべ』(四方木書房) と、塩見鮮一郎著 『淺草彈左衛門 全三巻』(批評社)。以上を送つてもらひ、さらに神保町へ歸つて、青木敬麿著 『念佛の形而上学』(南窓社) を發見。これは哲學書なのであらうか、法然に關してさらに興味が深まつた。

 

ブックカフェ二十世紀で休んでゐたら、となりのコーナーで、三味線が鳴りはじめたのでおどろいた。〈名邦文化協会 三味線ライブ〉といふ演奏會が二時から行はれ、そこにゐあはせたといふわけである。本來なら三〇〇〇圓(ワンドリンク込)の會費を拂ふべきところだが、となりから聞こえてくるのだから仕方ない。本を讀みながら聞き惚れてしまひ、なんとも心地よいバックグラウンドミュージックであつた。 

夕食は、神保町のアルカサールで、いつもの和風ステーキ。一五〇グラムをぺろりと食べることができた。調子がもどつてきたやうである。今日の歩數は、七八八〇歩であつた。

 

 

二月九日(日)舊正月十六日(壬午・望) 晴、寒い

 

今日も寒い。書齋で猫たちとともに讀書。 

澤田ふじ子著 『朝霧の賊 禁裏御付武士事件簿』 讀了。つづけて第三彈、『王事の惡徒 禁裏御付武士事件簿』 を讀みはじめる。 

手もとに、『京都の歴史 第五巻 近世の展開』 付録の「別添地図」(近世都市=京都の構造 延宝・元禄期を中心に)といふのがあり、これによると、禁裏や仙洞御所、公家衆宅をかこんで、禁裏御付與力同心の武家地が點在してゐるのがよくわかる。なかには、伊賀衆火消與力も見られる。幕府としたら、禁裏とうまくやつていくために、トラブルを起こしさうな事件を未然に防ぐことが目的であつたのだらうと、澤田さんの小説を讀んでゐて思つた。だから、内容は京都を舞臺にした諜報活動と捕物帖である。面白くないはづがない。 

 

今夜も風呂に入つた。寒い日がつづくので、ポンプのいかれたぼくのからだの血のめぐりが悪い。指先など冷たくなつてしまつて、猫のあたたかいカラダにふれてゐるとほつとするくらゐである。寢る前の風呂は血流をうながし、じつに氣持いい。 

 

 

二月十日(月)舊正月十七日(癸未) 

 

昨夜、佐々木信綱著 『原本複製 梁塵秘抄』(好學社) のなかの、「原本複製」部分(『梁塵秘抄卷第二』)を讀み終はる。語句の意味合ひは、新潮日本古典集成の 『梁塵秘抄』 を參照にし、表舞臺の和歌にはない獨特な味はいを堪能した。 

つづいて、岩波文庫の 『新訂 梁塵秘抄』 により、「梁塵秘抄口傳集 卷第十」を讀む。これも歴史の表舞臺に登場する姿とは趣を異にした、後白河院の私生活と肉聲が感じられて興味深い。 

さらに、『群書類從 第九輯 文筆部』 のなかの、大江匡房著 『遊女記』 と 『傀儡子記』 を讀む。『群書類從』 の漢文と見くらべながら讀むのが面白い。 

以下、それぞれから氣になるところを書き出してみる。 

 

〇 まづは 『梁塵秘抄』 から─ 

「戀ひ戀ひて 邂逅(たまさか)に逢ひて寢たる夜の夢は いかが見る さしさしきしと 抱くとこそみれ」(四六〇) 

「戀しとよ君戀しとよゆかしとよ 逢はばや見ばや見ばや見えばや」(四八五) 

「盃と鵜の喰ふ魚と女子(をんなご)は、法無きものぞいざ二人寢ん」(四八七) 

「此の巫女は樣(やう)かる巫女よ、汗衫(かたびら)に後(しり=尻)をだにかかいで(見せつけて)、忌々(ゆゆ)しう憑き語る 此を見たまへ」(五六〇) 

 

〇 次に、「梁塵秘抄口傳集 卷第十」より、後白河院の告白─ 

「そのかみ十餘歳の時より今に至る迄、今樣を好みて怠る事なし。・・・四季につけて折りを嫌はず、晝はひねもすうたひ暮し、夜はよもすがら唄ひ明さぬ夜はなかりき。・・・大方夜晝をわかず、日を過ごし月を送りき。其間人あまた集めて、まひ遊びて歌ふ時もありき。・・・聲をわる事三ヶ度なり。あまりせめしかば、喉はれて、湯水通ひしもすぢなかりしかど、かまへてうたひ出しき。晝はうたはぬ時もありしかど、よるは哥を歌ひ明さぬ夜はなかりき。・・・かくのごとく好みて六十の春秋を過しにき。 

・・・かくの如き上達部殿上人はいはず、京の男女、所々のはしたもの、雑仕、江口、神崎のあそび(遊女)、國々のくゞつ(傀儡)、上手はいはず、今樣をうたふ者のきゝおよび、われがつけて歌はぬ者はすくなくやあらむ。」 

ただ、後白河院にとつて殘念なのは、「こゑわざの悲しき事は、わが身かくれぬる後とゞまる事のなき也」と言ひ、「年頃かばかり嗜み習ひたる事を、誰にても傳へて、其流れなども、後にはいはればやと思へども、習ふ輩あれど、これをつぎつぐべき弟子のなきこそ遺恨の事にてあれ」と嘆いてゐるのである。たしかに、これらの今樣が、現在でも、どのやうな節回しで歌はれ語られたのか、解明がなされてゐないのである。 

最後に、乙前(おとまへ)といふ、「多く歌習ひたる師」たる老女を召して今樣を習ひ學んだ日々のことと、その乙前が亡くなつたときのことは感動的だけれども、省く。

 

〇 大江匡房著 『遊女記』 は漢文だけれど短文なので、ちよいとの努力で讀んでみた。現代語譯でそのさはりを寫す。

「山城国与渡津より、巨川を西に舟で一日行ったところに河陽がある。山陽・西海・南海の三道を行き来する者なら、必ず通る道である。・・・南岸河内国より、川が支流となったあたりが江口である(地圖參照)。摂津に至れば、神崎・蟹島などの地がある。ここには(娼家が)門を並べ、(遊女の宅が)戸を連ねて、娼女どもは群れをなし、小舟に棹さして、客船に取りつき枕席をすすめている。 

女が客を呼ぶ声は川霧をせき止め、音曲の音は川風に漂う。これには旅人もつい家庭を忘れてしまうのである。洲には蘆が生い茂り、白浪は花のごとし。翁の釣り船や酒食を商う舟、遊女の舟などの舳と艪が接し、水面も見えぬほどのにぎわいである。まさに天下一の楽園だ。 

江口では観音という遊女を祖として、以下、中君・□□・小馬・白女・主殿という名の遊女がある。蟹島では宮城という遊女を宗として、以下、如意・香炉・孔雀・立牧などがいる。神崎では河菰姫を長者として、孤蘇・宮子・力命・小児などがいる。これら名妓どもはみな、倶戸羅の再誕のような美声と衣通姫の生まれ変わりのような美貌をもっている。 

上は公卿・貴族から、下は庶民にいたるまで、これら遊女の寝屋に導かれたなら、身も心もとろけさせられてしまう。」 

これで、後白河院が呼び寄せたといふ 「江口、神崎のあそび(遊女)」 についてもがてんが行つた!

 


 

 

二月一日~十日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文本)

 

二月五日 澤田ふじ子著 『神無月の女 禁裏御付武士事件簿』 (徳間文庫) 

二月九日 澤田ふじ子著 『朝霧の賊 禁裏御付武士事件簿』 (徳間文庫) 

二月十日 佐々木信綱著 『原本複製 梁塵秘抄』 (好學社) 

二月十日 大江匡房著 「遊女記」 (『群書類從 第九輯 文筆部』 所収) 

二月十日 大江匡房著 「傀儡子記」 (『群書類從 第九輯 文筆部』 所収)