七月六日(土)舊六月四日(甲辰 曇天 

低氣壓がつづいてゐるためか、昨年同樣調子がよくなくなつてきました。食欲がないのはいつもの事ですが、讀書が億劫になつてきたのには困りました。 

それでも、昨夜は、『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第廿五・廿六』 を讀了。「武藏國の御家人、猪俣党の甘糟の太郎忠綱」のことと、「宇津宮の弥三郎賴綱」のこと。この賴綱こそ、藤原定家に 『百人一首』 を依賴した武將であります。が、ここではそのことには觸れられず、「大番勤仕のために、上洛したりけるついでに、承元二年十一月八日、(法然)上人の勝尾の草庵にたづね參じて念佛往生の法、御教訓をかうふ」つた話し。勝尾寺は、攝津にあり、法然が四國配流ののちに赦免されて帶留したお寺で、そこに賴綱は訪ねて敎へを受けたのでした。賴綱は法然最晩年の弟子と言つていいのでせう。さらに、「上野國の御家人薗田の太郎成家」のことと、「西明寺の禪門(鎌倉幕府第五代執權北條時賴)」のこと。

 

今日もまた、グレイとモモタ、ココとのお見合ひを繼續しながらも、『堤中納言物語』 の第二編〈このついで〉を讀了。つづいては有名な〈蟲めづる姫君〉です。現代假名で讀んでしまへばやさしいのですが、變體假名には言ふに言はれぬ魅力があります。でなければ、《變體假名で讀む日本古典文學》 なんてことははじめなかつたでせう。まあ、人がやらないことをやりたがるといふこともありますが・・・。 

 

七月七日(日)舊六月五日(乙巳・小暑 曇天 

午前中は、髪を洗ひ、グレイを書齋につれてきてお見合ひのつづき。晝には家を出て淸水に向かひました。淸水嶋のお父さんのモツ料理をいただくためです。 

そこで今日は、二册の本を持つて家を出ました。瀬戸内寂聴さんの 『「源氏物語」を旅しよう―古典を歩く〈4〉』(講談社文庫) と、寺島恒世著 『百人一首に絵はあったか 定家が目指した秀歌撰 (ブックレット“書物をひらく”⑯) 』(平凡社) です。お出かけには携帶に便利な小册子が一番。旅のついでにといふこともありますし・・・。 

東京驛發一四時〇三分のひかり號で靜岡驛へ、たつた一時間で到着し、改札口でマリちやんと夫の日又君が迎へてくれました。 

まづはお母さんのお墓參り、と思ひましたが、命日である明日行く豫定にしてゐるといふので、それではと、淸水は押切のマリちやんちへまつしぐら。お父さんがモツ料理を作つてくれてゐるのであります。 

お父さんのモツは、ぼくが淸水に着任した一九七五年からいただいてゐますが、決してあきることがありません。材料は、ブタのモツ、ジャガイモに、キャベツに、モヤシにピーマン。出しは昆布。味はうす味で、腹にもたれません。ですから、そのときはお腹がいつぱいになつても、すぐにすいてしまひます。まあ、ほとんどが野菜ですから、ご飯をたべないと、すぐに消化してしまふのです。以來四十四年、藥が切れたかのやうに、モツを何度おねだりしてきたことでせう。 

「毛倉野日記」をみると、移住した早々お父さんは淸水から伊豆までモツを作つて持つてきてくださつてゐるのでありますね。ありがたいことです。そのとき一緒に來てくださつたお母さんが、昨年の七月八日に亡くなられたのです。 

早速いただきました。うまい! じつくり味はひつつ、つづけて御代りしてしまひました。おしむらくは、すぐに滿腹してしまふことです。ですから、明日の朝またいただくことにして、早めに寝かせてもらひました。 

 

ところで、新幹線のなかでと、寢つくまでのあひだに、寺島恒世著 『百人一首に絵はあったか 定家が目指した秀歌撰 (ブックレット“書物をひらく”⑯) 』 を讀み終らせました。いやあ、ひと言ことで言つてつまらない! 自分ではわかつたつもりで、どうどうと論を張つてゐるんでせうが、まつたく傳はつてくるものがありません。この著者、自分でもわかつちやあゐないんではないでせうか? 

それにくらべて、五月十四日に讀んだ、草野隆著 『百人一首の謎を解く』(新潮新書) はよくわかりましたし、面白かつた。『百人一首』 を依賴した武將であり、法然の弟子となつた人物、宇都宮賴綱がどのやうな願ひをもつて藤原定家に依賴したのか、そこのところが丹念に説明されてゐてぼくは深く納得しました。ところが、草野先生のこの論は學界からまつたく無視されてゐるやうなのであります。そしておそらく、わけのわからん論を振り回すやうなやからこそ、學界受けしていい顔してゐるのでせう。 

 

*モツ料理職人、淸水嶋のお父さん登場!

 


 

 

七月八日(月)舊六月六日(丙午 曇天 

朝、マリちやんの家で目覺め、さつそくモツをいただきました。腹がきつくならなければいつまでも食べてゐたい、それがお父さんのモツであります。で、馬走(まばせ)にあるお母さんの墓地に行き、そのために來たのでありますが、掃除し、花を供へて、全員黙! 

歸宅するや否や、早めの晝食として三度めのモツ。いただいてから淸水驛まで送つてもらひ、逃げるやうにして歸路につきました。逃げるといふのは、モツの誘惑からといふ意味です。 

淸水驛一二時二四分發熱海行き。乘り繼いで小田原驛乘り換へで、町田に出ました。モツの誘惑は振り切つてきましたが、馬刺の誘惑はこれまた激しくて、それでも四時開店の柿島屋さんの暖簾をくぐると、すでに何組ものおぢさんおばさんが陣取つてをりました。 

ぼくがたのむのは、上馬刺と冷奴とご飯の小とジンジャエールの小のみ。ところが、注文した上馬刺がいつもとちがふので、あれ、上をたのんだのに並がきたのかなと思ひながらも口に入れてみたら、これがまたなんとも美味、びつくりしてしまひました。思はず、店員のおぢさんのはうを見てみましたが、そつぽを向いて知らん顔。やあ、特別に出してくれたのだと思ひたい、そんな上馬刺でした。よく味はつて食べました。モツとともに、馬刺は人生を去る時には、ああ滿足したと言へるほど食べてから逝きたい食べ物であります。

 

それと、けふの歸り、東海道本線の興津驛と由比驛のあひだは海岸べりを走ります。波が大きいと、國道を越えて波のしぶきがかかる近さですが、そこを走つてゐたら、はるか駿河湾の向かうに伊豆半島が見えるではありませんか。そのなかを車で走り回つた日々を思ひ出したら、感無量! また、原驛近くでは、走つてゐる車内から、白隠さんのお墓、「白隠禅師墓所」の寫眞が撮れました。

 


 

七月九日(火)舊六月七日(丁未・上弦 曇天 

今朝から、朝食を生卵かけごはんにしてみた。佃煮と海苔が少々。これにタラコのひとはらなんて言つたら寅さんになつてしまふので自肅。まあ、これで元氣がとりもどせるものかどうか、ものは試しだ。 

今日は一日中、ネコのお相手。お見合ひがうまくいくやうに、グレイにはもちろん、モモタとココにも氣をつかふ。グレイを、思ひきつて書齋のなかに放してみたところ、傷つけるやうなことはなく、モモタなどはペロペロなめてゐる。が、グレイがすばやく逃げ回つたり、モモタの尻尾に食らひついたり、先住者にとつては目障りのやうなので、時間を決めて放すやうにしてみた。 

と言ふことで、瀬戸内寂聴さんの 『「源氏物語」を旅しよう―古典を歩く〈4〉』、まだ讀み終らず。 

しかし、殘りわづかだつた 「毛倉野日記(四)」(一九九四年七月)、解説も寫眞も少なくして寫し終へることができた。八人の方々にそつとお送りする。 

 

七月十日(水)舊六月八日(戊申 曇天一時珍しく日差しが照る 

毎日寒い。いいのかわるいのか、洗濯物がからりと乾かないし、作物もこれでは成長に障りがあるだらう。 

ところで、今朝も生卵かけごはんをいただきましたが、佃煮と海苔が少々の外に、妻がタラコのふたはらをつけてくれたのでした。いやあ感謝して美味しくいただきました。かうして寅さんの願ひをはたすことができました。

 

グレイ、新參者ですが、モモタとココとうまくやつていけさうです。今朝も、書齋に放すやいなや縱横無盡に走り回り、「おい、またうるさいのが來たよ」といつたふうのモモタとココを尻目にやり放題。時には、モモタに飛びかかつては押さへられて、ぺろぺろとなめられたあげく、ぼくのひざのあひだでぐつすりと眠ることができました。ただ、ココがまだ傍觀者ふう。女の子なのに、男の子のモモタのはうがはるかに母性的です。

 


 

 

七月一日~卅一日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

七月二日 寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(五) 法然をめぐる人々』 (毎日新聞社) 

七月五日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第廿五・廿六』 

七月六日 〈このついで〉 (『高松宮藏 堤中納言物語』 所収 日本古典文学会)