「七月 讀書日記」 (一日~五日)

 

このところ調子よくありません。昨年同樣、低氣壓のせいだと思ひますが、讀書に差し障りがでるのが困ります。まあ、新たに子ネコを飼ふことにしたので、それで元氣がでればと期待してをります。 

 

七月(文月)一日(月)舊五月廿九日(己亥 小雨 

今朝、齒醫者から歸つてくると、外出してゐた妻が飛び込んで來て、子ネコを連れてきたのよ、それもまだ小さい子ネコで、食事をあげなければ、といつて大騒ぎ。わけを聞くと、公園に段ボールが置かれてゐて、中にゐたのだといふ。近所の人が見かけてカツネコに連絡をよこしたらしいのだ。それがまた可愛い子ネコで、誰がどうして捨てたのか、逮捕してほしい! 數日あづかることになりました。 

『念佛ひじり三国志(五)』、佳境に入つてきました。この物語、いはゆる承元法難(建永法難とも言ふ)が南都北嶺の攻撃を背景にした、後鳥羽院側のでつち上げであつたかを嚴しく述べてゐます。ぼくははじめひようきんな物語かと油斷してゐましたが、たくさんの史書や諸記録を驅使して、歴史の眞相に迫らうとする物語であります。 

法然が迫害の迫るなか、その覺悟を弟子に語る場面で、歌を披露してゐます。

 

月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ 

 

これは淨土宗の宗徒ならだれでも知つてゐると著者は言ひますが、ぼくは 『吉永遺訓(一枚起請文)』 の冒頭に記されてゐたので知りました。が、たしかにこの歌は、宗敎心の基底にながれる思ひだと思ひます。さういへば、會津八一の歌に 

 

あめつちにわれひとりゐてたつごとき このさびしさをきみはほほゑむ

 

といふ、これは 『南京新唱』 のなかの、夢殿の久世觀音にささげられた歌として有名であります。救ひは、月かげのやうに、觀音の微笑みのやうに、そそがれてゐるのでありますね。 

つまり、ひとり一人が自分の苦しみは自分で負ふしかないやうに、救ひの光も微笑みも、そのもとにひとり立つことによつてしか、受け入れることはできないものなのであります。 

敎理、敎團なくして、歴史に生き殘ることはできませんが、そこはまた生臭い衆生の集まりでもあります。それらが純眞な信仰にとつてつまづきをもたらすことがないとはいへないところに、宗敎といふものの難しさがあると思ひます。 

 

七月二日(火)舊五月卅日(庚子・半夏生 小雨、曇天 

昨夜、「毛倉野日記(三)」(一九九四年六月) を寫し終へました。ぼくの小學生のころの通信簿を發見してその内容に驚いたことや、仕事と木工が順調に進みはじめたこと、近所の方々ともうまくやれさうになつてきたこと、美味しいお店を發見したこと、さう、バードウオッチングをはじめたことも記されてありました。 

しかし、今思ふと反省すべきことなども多々見られ、ぼくの人生の總決算といふか淸算をしてゐるやうな感じです。 

 

七月三日(水)舊六月朔日(辛丑・朔 曇り時々日差し 

昨夜おそく、寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(五) 法然をめぐる人々』 が讀み終りました。全五卷のうち、前半と後半では多少描き方が違ふやうに思はれましたが、法然の専修念佛の宗徒にたいする彈壓の眞相を描く歴史繪卷でした。

つづいて、ひきつづき、 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖)』 の第廿五・廿六卷を讀みはじめました。それで、この書について、寺内大吉さんが〈あとがき〉で書いてゐることを寫しておきたいと思ひます。 

「若い日、初めて法然伝─四十八巻伝(『圓光大師傳(法然上人行状畫圖)』)を読んだ時、これはいったい何であろうか、と考えこんだ記憶がある。宗教書、歴史書、文学、そのどのジャンルにも属さない。伝記ですらなかった。さまざまな史実や挿話、経綸、教義が雑多に投げ込まれ、しかも読み終ってみれば混然一体、法然像が鮮明に浮上してくるのである。」 

といふ書物なんです。はたして、法然像が浮上してくるかどうか、あとの半分を讀み進んでいきたいと思ひます。もう、變體假名であることはほとんど氣にならなくなりました。 

そこで、ちよいと氣晴しとして、ピーター・ラヴゼイの 『最後の刑事』 を讀みはじめました。アンソニー賞・最優秀長編賞受賞といふ作品です。しかし、はじめて讀む作家です。はたしてお氣にめすものかどうか? 

 

今日、妻と話しあひ熟慮のすゑ、妻がグレイと名づけた子ネコを飼ふことにし、書齋のモモタとココと、もちろんケージに入れたままで、お見合ひさせました。 

ところが、モモタが嚴しい態度で威嚇して、グレイちやん、びびつてしまひました! お見合ひは失敗でしたが、それでも飼ふことにしたので、別の部屋で育てることにしました。 

それにしてもモモタのやつがかたくなです。ココのときはすんなり受け入れ、仲良くやれたのに。まあ、どうなるかがんばつてみます。 

 

七月四日(木)舊六月二日(壬寅 雨降つたりやんだり 

今日は、ノラネコの一時預かり所になつてゐる、中村莊の空き部屋に入れてあるグレイにしばしば會ひに行き、遊んであげてゐるのか、ぼくのはうが遊ばされてゐるのか、モモタ、ココとはまた違つた感觸である。ココは、飼ひはじめたころ、今のグレイより大きかつたけれども、ノラだつたからか、まつたく觸らせることなく、すぐ逃げ回つてばかりゐたので、子ネコの可愛いらしさを感觸として味ははないですぎてしまつた。最近は自分からひざにのつてくるやうになつたけれども、それはそれで可愛いけれども、グレイの味はいはまた格別なものがある。

 

今日はまた、同じ中村莊の書庫になつてゐる部屋で、木工とまでいかないが、使用中の燻し竹の箸のメンテナンスをおこなつた。道具を使ふのはまる九年ぶり。全體の黒ずんだところを削り、先端を二四〇番のペーパーでケバを落として磨き、さらにブラッシング、仕上げは竹の板で磨くといふか固めるといふか、コリコリと素材を磨き上げてできあがり。ほんの三、四膳だつたのに汗をかいてしまつた。

 

しかし、午後横になつて本を讀みながらうとうとしてゐたら、あまりに寢苦しいので、すぐに枕元においてあるパルスオキシメータを指先に装着して計つたら、九四の値だつたの不安になる。みか先生は九六か九五がでたらすぐ通院しなさいと言つてゐました。が、深呼吸をして再び計つたら九八だつたのでひと安心。でも、ぼくの心臟のポンプもそろそろ限界にさしかかつてゐるかも知れない。 

それを考へたら、新たに子ネコを飼ふのは無理かも知れないと思ひつつ、何度もネコ部屋にかよひつめてしまつた。ひとり遊びもできるし、すぐにひざにのつてきては顔をのぞきこむ。指先に力を入れたらたちどころに消え失せてしまふであらう小さな命が輝いてる。うらやましいと思つた。 

と、思ひ亂れつつ、今日の讀書は、『圓光大師傳(法然上人行状畫圖)』 の第廿五。「鎌倉の二位の禪尼(政子)へ進呈したお返事」と、「大胡の太郎實秀とその妻のもとへつかわしたお返事」で、内容は、いかにしたら極樂に往生できるかの懇切なる敎へでした。まるで、ぼく自身に語られてゐる言葉のやうでした。 

 

七月五日(金)舊六月三日(癸卯 曇天 

今日も汗をかきました。あらためて、グレイとモモタ、ココとのお見合ひを決行してみたのです。まづ、經驗者の協力を得て、グレイのからだをよく洗つて、汚れはもちろん臭いとどこかに潜むノミなどを洗ひ流しました。それからまた、きれいにしたケージを書齋に入れて、モモタとココの相手をしてあげた後で、グレイをケージに移しました。 

ぼくは、グレイに關心をもたないふりをしつづけながら、しばらく、モモタの相手をつづけたまま樣子を見ました。すると、グレイはひとり遊びができる子で、モモタがちよつかいを出すのだけが心配でしたが、ぼくがゐるためか、次第に平常通りにもどりました。 

ココは、ぼく以外の人がゐると押し入れに隠れたままでしたが、おそるおそる顔を出し、同じやうに氣にはなつてゐるやうですが、いつものやうに、落ち着いてゐました。ただ、ぼくのひざのうえにくると、心なしかいつもより甘えてゐるやうに感じられました。 

ぱつと對面させてしまへばはやいのだけれども、それはくれぐれも注意されました。ケージをへだてたお見合ひを何日も經て、大丈夫だなといふことが確信できるまでは自重しなければならないさうだ。 

夜間やぼくが長時間外出するときだけ、中村荘のネコ部屋にもどすことにして、しばらくはお見合ひを繼續してみるつもりです。グレイは、びびつてもゐないし、ひとりで遊んだり寝てゐます。むしろ、モモタのはうがグレイが遊んでゐる猫じやらしをうらやましさうに見てゐて、たうとうそれを奪ひ取つてしまひました。まあ、初日といふことですが、これからどうなるか、三びきがうまく共存できたら萬々歳です。 

 

ピーター・ラヴゼイの 『最後の刑事』 を讀みはじめましたが、一〇二頁で斷念しました。偉い賞を受賞したかも知れませんが、だらだらと引き回されるのに、いささか閉口しました。氣晴しには氣晴し用の作品を選びたいと思ひます。 

そこで、結局、《變體假名で讀む日本古典文學》 に立ち返り、次の作品、『堤中納言物語』 の第二編〈このついで〉を讀みはじめました。 

 

*出會つた日のグレイと、モモタ、ココとのお見合ひ!

 


 

 

七月一日~卅一日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

七月二日 寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(五) 法然をめぐる人々』 (毎日新聞社) 

七月五日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第廿五・廿六』