六月廿一日(金)舊五月十九日(己丑 曇り 

昨夜、『毛倉野日記』 の一九九四年四月分をワード文書に寫し終へました。もつと簡單に書き寫せるかと思つてゐましたが、けつこう手間暇がかかりました。つづいて五月分を寫す前に、さて、誰に送つたらよかつたでせうか? 

と、考へましたが、古本散歩の支度をして、我が家を出たのはすでに一〇時になんなんとしてゐました。神保町の古書會館についたのは一一時近く。混んでゐると思ひきや、初日なのにがら空きでした。さういへば、今日の〈新興展〉の即賣會は和本が多く、それなりに需要も限定されてしまふからでせうか。もちろんぼくには極樂でして、より取り見取り。しかし、趣味が違ふからいいやうなもの、高價なものは何十萬もしてゐます。ぼくはそれより二桁も三桁も少ない和本を探し出し、三册求めました。 

次いで五反田の古書會館へ。ここでも和本二册と、昭和三年發行の 『京都巡覽の栞』 といふ、ほぼすべてお寺の案内書。これは便利さう。 

五反田からの歸路、途中の押上驛で下車し、スカイツリーの天龍に寄つて、久しぶりに餃子ライスをいただきました。「毛倉野日記」を寫してゐて、引つ越して何日もたたないのに、上京したついでに銀座の天龍へ行つてゐるんです。そのことを思ひ出したら、矢も楯もたまらなくなつてしまつたからでした。でも、食べることができたのは餃子もライスも半分だけ。殘つた四ケを包んでもらひ、お土産買つてきてあげたよと歸宅したら、なに言つてゐるのよと、妻にバカにされてしまひました。 

あつ、バカにされたといへば、神保町で、おせいさんの 『ああカモカのおっちゃん』 を見つけたので、歸りの電車で讀み出してしまひました。あれこれ思ひ出して面白い! 

 

今日収穫した和本 

『白隠和尚自画賛集』 (寶暦九年・一七五九年序) 

『仙厓和尚 捨小舟』 (嘉永六年・一八五三年 聖福寺藏版) 

『心學絵本 道歌百首和解』 (守本恵觀著、信行社、明治十九年) 

『吉原戀乃道引』 (延宝六年・一六七八年刊 複製 臨川書店) 

『百姓往來』 (嘉永五年・一八五二年) 

 

六月廿二日(土)舊五月廿日(庚寅・夏至 曇りのち雨のちやむ 

今日は一日つらかつた。食欲がなくて體力も氣力も落ち、ふらふらしながらも歩けないほどではなかつたので、源氏物語の講義には出席。その後力をふりしぼつて高圓寺の古書會館へ。しかし、探索意欲が缺けてゐたのか一册も出會ふことなく歸路につく。こんなことはじめてでした。 

ところがその歸り、高圓寺の驛から古書會館までのあひだにある焼き鳥屋のもうもうたる煙にひかれて、いつもは通りすぎてゐたのですが、今日は先客につられて、ねぎまとレバーと皮を注文、店先でおいしくいただいてしまひました! 

といふわけで、歸りの電車では「カモカのおっちゃん」をおともにゆられゆられていい氣持ち。ただ、二日つづけての外出はちよいと堪へるこのごろです。 

 


 

 

六月廿三日(日)舊五月廿一日(辛卯 曇天 

昨日の 《源氏物語をよむ》 の講義のあとで、先生に、例の 『国文学研究資料館蔵 橋本本 『源氏物語』「若紫」』 をお見せしたら、先生もご存じで、ただこれ中途半端よね、とおつしやいました。たしかにぼくもさう思ひます。といふか、さうだよなあと氣がついたしだいですが、どうせならすべてを變體假名の字母にすべきでした。 

例へば、冒頭に、「わら八や三尓・王つらひ・堂まひて」と、「『変体仮名翻字版』で翻字し」てありますが、さらに徹底して、「和良八也三尓・王川良比堂末比天」とすべきだといふことです。これだとまるで萬葉假名ですが、まさにさうなのです。たぶん、「現行の平仮名書体」の文字はそのままにしたためでせうが、それでは、まだ「明治三三年に定められた現行の平仮名書体一種に拘束・統制されたままで」あると言つてゐる、そのままです。でも、そこまでやると、たしかにもう高度なパズルのやうで、ほとんど讀めなくなりますけれどね。

 

『毛倉野日記(01)』(一九九四年四月) が仕上がつて、數人の友人に送りました。おほむね好評ですが、まあ若氣の至りとはいへ、よく山暮らしなんてはじめたものだと思ひます。今のぼくには考へられません。若氣とはいつても、そのときすでに四十七歳。よほど仕事が性に合はずに飛び出たがつてゐたのでせう。それなのに、寫してゐて、まるで他人事のやうな氣がします。自分の人生の貴重な一コマ二コマであつたはづなのに、さびしい。 

 

六月廿四日(月)舊五月廿二日(壬辰 雨、曇天、雨、時には晴! 

天候にあはせるやうに、體調も不安定で、それでもどうにか「カモカのおっちゃん」によつて支へられ、『朗詠假名抄』 もやつと下巻に入ることができました。 

また今日は、「毛倉野日記」を寫しながら、毛倉野に落ち着くまでの家さがしの変遷をたどつてみました。五、六か所あつたはづですが、どこが先でどこがあとだつたか順序が定かでなくなつてゐたので、日付順のアルバムを手掛かりに跡をたどりました。 

一九八九年一月から、檜原村を皮切りにはじまつた山の家さがし、我ながらご苦労さまと言ひたいくらゐ。すべて訪ねた場所の寫眞も見つかり、思ひ出深く振り返ることができました。 

 

六月廿五日(火)舊五月廿三日(癸巳・下弦 雨のち曇 

今日、一日費やして、「毛倉野日記(二)」(一九九四年五月) を寫し終へ、ご希望の方々にお送りしようとしたところ、システム管理者から、このメールは「配信不能」ですといふのであります。 

でも、よく考へ見たら、どうも重量オーバーだつたやうで、二分割にして、前半と後半に分けたらそれぞれ送ることができました。このやうなこと、『歴史紀行』以來です。 

たしかに寫眞が多かつたのですが、一枚一枚はサイズを八〇〇×六〇〇畫素に統一してあるので、それほどでもないと思ふのです。不思議です? 

それにしても、「毛倉野日記(二)」の「補足」でも書いたやうに、高校三年生の一九六五年十二月廿六日から書きはじめた日記、その内容は心に思ふことや考へてゐることを述べるばかりで、何をしたか、どこへ行つたか、だれと會つたかなどの具體的なことがまつたく書かれてゐないので、あとから見ても面白くありませんでした。それに氣づいてからは、日記には、具體的にやつたこと、經驗したことなどを書くやうにしたので、たしかに、この「毛倉野日記」を讀んでゐると、當時のぼく自身の行動が目の當たりによみがへつてきて面白い!

 

 

六月一日~卅日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

六月二日 寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(二) 法然をめぐる人々』 (毎日新聞社) 

六月五日 森詠著 『風の伝説』 (徳間文庫) 

六月八日 加藤昌嘉著 「紫上系と玉鬘系」 (『物語の生成と受容 ③』 国文学研究資料館 所収) 

六月九日 玉上琢弥著 「『谷崎源氏』をめぐる思い出」 (『玉上琢弥先生退職記念特輯』 大谷女子大国文学会編 所収) 

六月九日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第廿一・廿二』 

六月十日 寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(三) 法然をめぐる人々』 (毎日新聞社) 

六月十三日 『法然上人絵伝 第廿三~廿四』 (岩波文庫) 

六月十三日 森詠著 『陽炎の国』 (徳間文庫) 

六月十五日 『淸經』 (觀世流稽古用謠本・袖珍本 檜書店) 

六月十六日 秦恒平著 「清経入水」 (『清経入水』 角川文庫 所収)  

六月十九日 簗瀬一雄編 『一言芳談』 (和泉書院影印叢刊

六月廿日 寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(四) 法然をめぐる人々』 (毎日新聞社)