六月十一日(日)舊五月廿九日(庚午 曇天、今日も寒い 

田辺聖子さんが亡くなられました。九十一歳。膨大な作品を遺されましたが、ぼくは、小説よりもエッセイ調のものがいいと思ふ。『女の長風呂』 や、『イブのおくれ毛』、それに 『籠にりんご テーブルにお茶…』 もいい。でも、おせいさんと言へば、なんと言つても、『カモカのおっちゃん』 だらうなあ! だいぶ昔讀んだ本で、ぼくも若かつたからかしら。 

 

『一言芳談』 を讀み出したら、すでに讀んだ形跡がありました。ただ數頁で斷念したと思はれます。さうでせう、五年前にもとめた影印書でしたが、變體假名を讀む意欲だけでは長つづきしなかつたのです。たしかに面白さうですが、これだけを突然讀んでもつづかないと思ひました。今、法然さんをずつと學んできてゐて、その過程で改めて手に取つたわけですが、はなしの内容にすんなりと入つていけます。やはり讀むには時があるのです。 

ところで、『一言芳談』 の刊本は三種類あつて、現在刊行されてゐる文庫本のうち、角川文庫とちくま学芸文庫は同じ原文(慶安元年・一六四八年版)ですが、岩波文庫だけは、『標註一言芳談抄』(元禄二年・一六八九年版) といふ、内容が、無常、臨終、念佛、學問 、用心などに分類分けされてゐる原本を採用してゐます。ぼくとしては、本文はもちろん、現代語譯、解説、補註、それに解説が詳しい角川文庫がいいのではないかと思ひます。 

ちなみに、和泉書院影印叢刊の 『一言芳談』 は、角川文庫とおなじ簗瀬一雄編の慶安元年版を採用してゐます。 

 

六月十二日(水)舊五月十日(庚辰 曇天、一時日差し 

靑戸の慈惠醫大病院に行つてきました。二年ぶりです。そのときと同じ症状で、咳がとまらず、このままではまづいと思つたからですが、診ていただいた結果は喘息ではなく、氣管支炎でした。 

で、考へたら、この咳、和本の埃ではなくて、エアコンを使用し始めたころなので、エアコンに溜まつてゐた埃かも知れない。注意してゐたはづでしたが迂闊でした。 

それにしても、九時前に受付、二時間待つて診察、その結果血液檢査とレントゲンを撮ることになり、さらに待つてから再び診察を受けて病院を出たのが午後二時でした。いただいた藥が効くことを願ひます。 

それで、待つことは覺悟してゐたので、かたい本はやめにして、病院へは、森詠さんの 『風の伝説』 の續編、『陽炎の国』 を持つていきました。 

 

六月十三日(木)舊五月十一日(辛巳 晴 

外は爽やかさうですが、今日も寢ころんで終日讀書。 

昨夜、ネットで咳の止め方を調べてみました。まづ、咳がでたらお湯を飲むことを知りました。ぼくは水分補給のために、いつもポットに冷水を入れておいて飲んでゐたのですが、それもよくなかつたかと思ひました。二つ目は、指壓です。腕に、「尺沢(しゃくたく)」といふつぼもありますが、ぼくには、「天突(てんとつ)」といふ、「鎖骨の間の窪んだところ。下に向かって鎖骨の裏側を押す感じで指圧します」、といふつぼを試してみました。これが効くやうです。もつとも藥を飲んでゐるので、効き目のほどはたしかではありません。

 

『陽炎の国』、繼讀。また、冒険小説の箸休めに、『法然上人絵伝 第廿三~廿四』 を岩波文庫で讀みました。和本では缺けてゐた卷です。 

 

ところで、「毛倉野日記」をパソコンのワード文書に書き寫しはじめました。ブログに載せるかどうかは決めてゐませんが、載せてもいいやうに、書くに至つた經緯を記してみました。以下、その「はじめに」の文章と、第一日目の日記です。 

 

愛犬ラムとともに南伊豆町毛倉野(けぐらの)を出て、東京は葛飾堀切の生家に歸つてきてから、すでに九年がたちました。一九九四年四月から二〇一〇年五月まで、十六年間過ごしてきた毛倉野は、ぼくの第二の故郷といふか、すでに心の故郷になりかけてゐます。歸郷後も、ラムが生きてゐるあひだは、まだ毛倉野の生活をひきずつてゐるやうな暮らしでしたが、そのラムに出會ふために伊豆に移住したとしか思へなかつたその愛しいラムが亡くなつてからは、急速に遠い過去の思ひ出のなかに霞んできてしまつてゐます。 

ふりかへつてみると、その十六年はぼくの一番「健康」なときでありました。山暮らしをするには最も適した體力と氣力にあふれてゐた時期でもありました。心臟の働きも、まさかのちにペースメーカーを賴りにしなければならないほど、弱くなるなんて思ひもしなかつたころでした。 

その生活のはじめから、思ひ出をつづるのではなく、當時つけてゐた日記をそのまま書き寫さうと思ひます。二〇一三年十二月から書きはじめた「ひげ日記(讀書の旅)」のはじめのはうで、毛倉野について書いたところがありますが、思ひ出話しをいくつか書き記すだけに終つてしまひました。できれば、文章の拙さはともかく、一字一句違はずに寫したいと思ひますが、字句の誤りは正し、差し障りのある人などはイニシャルだけにしたいと思ひます。 

書いてゐたのは横書きの 『十年日記』 でしたから、一日のスペースはたつた五行。それと、頁をぺらぺらしてみたら、讀書については當時は輕いものばかりで、册數もそれほど多くありません。生活が樂しくて、讀んでゐるひまがなかつたからでせう。それで、はづかしくて讀書日記などとは言へないので、「毛倉野日記」と名づけました。 

ちなみに、毛倉野の我が家は、下田から眞西に一二キロほど、下賀茂温泉に近い山の中にありました。廢屋同然の家屋を改装し、川和から引越して來るまでにどうにか間に合つたのでした。桃源郷といふほどのところではありませんが、強烈な西風を防いでくれる山を背に、南東は淺い谷底に面してゐるので、遠い山の尾根から射し込む朝日の美しさは絶景の隠れ里と言つてよいでせう。 二〇一九年六月十三日 

 

「毛倉野日記」 一九九四年四月一日(金) “新聞はとらず、TVももたず”の生活が今日からはじまる。天候は、晴のち曇り、夜に入つて雨。が、あたたかい。向ひのサンゴジュにコゲラが來てコツコツとぼくらを迎へてくれてゐるやう! しかし、起きるのが少し辛かつた。それでもよく働いた。近所のお隣さんとなる菊池さん、平畑さん、それに鈴木さんを訪ねてあいさつ。本を出したみかん箱をかたづけ、庭を掃除。焼却爐をつくる。洗濯機設置。妻は下田に買ひ物。一日よく働いた! 

 

と、まあ、これはあくまでもぼくの控といふか、「バックアップ」ですので、ブログには載せず、どうしても覗きたい方には、どうしませう。メールに添付しませうか。ちよいと人には知られたくないこともありますし、ぼく自身が懐かしがつてゐるだけですから。 

 

六月十四日(金)舊五月十二日(壬午 晴のち曇り 

昨晩、『陽炎の国』 讀了。途中でやめられなくて、ついに讀み通してしまひました。 

本書の「データベースより」といふ文章を引いておきませう。 

「北一馬は米大陸を根城に、愛機DC3を駆る運び屋だが、なぜか事件がついて回る。今回もアマゾンの奥地で、トラブルだ。受け取った運賃と愛機が盗まれ、おまけに日系の少女の父親捜しまで背負い込んでしまった。すべての元凶は、インディオが隠したという黄金都市にあった。その財宝を狙って、諜報組織やシンジケート、それに革命ゲリラや山師までがからんで、局面は予想外な展開に…。長篇冒険シリーズ。」 

まあ、讀んでびつくりですが、まるでインディ・ジョーンズ シリーズの第四作、『クリスタル・スカルの王国』 を思はせる内容でした。なにしろ、水晶の髑髏がでてきますからね。本書は一九八九年に書かれ、映畫のはうは二〇〇八年制作ですから、森さんのはうが早く、はたしてどこからクリスタルの髑髏の發想を得たのでせうか? 

ちなみに、「双発プロペラ機ダグラスDC3で運び屋をする北一馬」シリーズの第一作は、『さらばアフリカの女王』 で、第二作が、先日讀んだ、『風の伝説』。そして、本書は三作目になるのでした。多分、第一作はずつと以前に讀んだと思ふのですが忘れました。 

 

今日は金曜日、神田の古書會館に行きましたが、ちよいと不調なこともあり、いい本が目に飛び込んできませんでした。求めたのは、文庫本大の和本一册のみ。『和歌八重垣』 全七巻のうちの一巻め。二〇〇圓でした。まあ、變體假名が讀めさうだから求めたのですが、調べたら有名な書のやうです。 

それと、古書店街のとくに廉價の文庫本のうちから、ジョン・バニヤン作 『天路歴程 第一部・第二部』(岩波文庫)、秦恒平著 『清経入水』(角川文庫)、高村薫著 『黄金を抱いて翔べ』(新潮文庫) の四册を入手。すべて二册一〇〇圓の棚から見つけました。しめて二〇〇圓。 

五五九〇歩歩きましたから、不調にしてはいい散歩になりました。 

 

六月十五日(土)舊五月十三日(癸未 雨 

今日は土曜日、學習院さくらアカデミー 《源氏物語をよむ》 の講義に出席してまゐりました。行きも歸りも本降りの雨。古本市もないことだし、最小限の荷物を背負つて出かけました。靑表紙本をはじめ、三種のテキストと講談社學術文庫の 『源氏物語湖月抄 増注』 の分册。どのテキストもみな切り裂いて卷ごとに分册にしてあるので、持ち歩きには便利です。それと、広辞苑と漢和辞典の入つた小型の電子辭書(シャープ電子辞書PW―AC10)、これもまた輕くてたいそう役立ちます。今日も講義中に何度か使用しました。 

肝心の講義ですが、今日は、靑表紙本で豫習してきただけで臨みました。今回は、〈若紫〉の途中から、「源氏、招かれて僧都の僧坊を訪れる」と、「源氏、紫の上の素性をきき、僧都に所望する」のなかほどまで讀みました。どのやうにして紫の上を所望したかは、次回に回りましたが、今日のところのハイライトは、源氏が僧都を前にして、自らの罪を心の中で獨白するところでせうか。罪を獨白すると言つても、どのやうな罪かは具體的には明らかではありません。が、それゆえに推察することは可能で、やはり道ならぬ戀路をたどつてゐることについてだらうと思ひました。以下、「・・・」は靑表紙本、(・・・)は與謝野晶子譯です。 

僧都を訪ねたところで、僧都が、世の無常を語り傳へた直後です。源氏は、「わがつみのほとおそろしう、あちきなき事に心をしめて、いけるかきりこれをおもひなやむへきなめり、ましてのちの世のいみしかるへきことおほしつゝけて」(源氏は自身の罪の恐ろしさが自覺され、來世で受ける罰の大きさを思ふと、さうした常ない人生から遠ざかつたこんな生活に自分も入つてしまひたいなどと思ひ)と、いやに神妙です。普段の自信滿々の源氏とは一味違ふと思つたら、やはり下心があつたやうで、「ひるのおもかけこころにかかりて戀しけれは」(夕方に見た小さい貴女が心に懸つて戀しい)と、胸の内では紫の上にたいする執心がむくむくとわきあがつてゐたのであります。 

もうひとつの罪の自覺は、前回讀んだところですが、紫の上を見たとき、戀する藤壺に似てゐることをつぶさに見てとり、「さてもいとうつくしかりつるちこかな、なに人ならん、かの人の御かはりに、あけくれのなくさめにもみはやとおもふこころふかうつきぬ」(それにしても美しい子である、どんな身分の人なのであらう、あの子を手許に迎へて逢ひ難い人(藤壺)の戀しさが慰められるものならぜひさうしたいと源氏は深く思つたのである)などと、よこしまな思ひに壓倒されたことでせう。あれやこれや愛欲まみれの源氏の君。あなたはまだ十八歳なのに、まあえらい! 

 

ところで、講義に臨むにあたつて、今日は目白驛から歩いて一分もかからないところに、潜んでゐるとしか形容できない、「ぞろ芽」といふうなぎ屋を訪ねて、おいしいうな重をいただきました。ご飯を少なめにしてもらつたのに、それでも殘してしまふ體たらくでしたが、なんとしても力を補給しなければならないと思つたからです。大枚をはたいただけあつて美味しくいただけたので、よしとします。 

 

また今日は、昨日手に入れた、秦恒平著 『清経入水』 を持つて家を出ました。書名は知つてゐても讀む機會のなかつた本ですが、今や時が滿ちたのかも知れません。それとともに、本書の冒頭に出てくる、謠曲の『淸經』(觀世流稽古用謠本の袖珍本)を探し出し、行きの電車の中で讀んでみました。 

秦恒平さんは、『平家物語』卷第八〈大宰府落〉において、「淸經入水が伝えられる如く、豊前柳ケ浦沖だったとすると、宗盛、知盛、維盛、敎經らの悉くが健在」であり、「必ずしも平家に絶望とも思えぬ時に、月光を金波銀波をかき乱して若き淸經は舟を捨てたのだ。・・・淸經はなぜ死を急いだか。字義通りの厭世や絶望であったか、欣求浄土であったか」と、問ふてをるのであります。淸經、享年二十一歳でした。 

その理由のひとつに、『建礼門院右京大夫集』 が出てきたのにはおどろきでした。たしかに、先日讀んだ 『右京大夫集』 を開いてみたら、淸經のことが出てゐました。考へたら、淸經は、右京大夫の愛人資盛の弟でした。その淸經が、齋院の式子内親王に仕へてゐた中將の君を捨てて、他の女房に走つたこと知つた右京大が、中將の君に手紙と歌を送つたことと、それにたいする中將の君の返事の歌が掲げられてゐました。 

秦恒平さんは、新發見の資料から、その返歌の最後は、「鬼とぞ」といふ言葉でむすばれてゐたので、淸經が、捨てた女から鬼のやうに憎まれてゐたことを明らかにしてゐます。 

秦恒平さんは、ですから、このことが、淸經が自殺(?)した原因のひとつと見てゐるやうですが、まだ途中なので結論は出してをりません。 

ちなみに、平淸經供養塔が、大分縣宇佐市にあるやうです。 

 

 

六月一日~卅日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

六月二日 寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(二) 法然をめぐる人々』 (毎日新聞社) 

六月五日 森詠著 『風の伝説』 (徳間文庫) 

六月八日 加藤昌嘉著 「紫上系と玉鬘系」 (『物語の生成と受容 ③』 国文学研究資料館 所収) 

六月九日 玉上琢弥著 「『谷崎源氏』をめぐる思い出」 (『玉上琢弥先生退職記念特輯』 大谷女子大国文学会編 所収) 

六月九日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第廿一・廿二』 

六月十日 寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(三) 法然をめぐる人々』 (毎日新聞社) 

六月十三日 『法然上人絵伝 第廿三~廿四』 (岩波文庫) 

六月十三日 森詠著 『陽炎の国』 (徳間文庫) 

六月十五日 『淸經』 (觀世流稽古用謠本・袖珍本 檜書店)