六月六日(木)舊五月四日(甲戌・芒種 晴、暑い 

昨日、八ッ場ダムの湖底に沈む鐵道施設について、「石橋山古戰場を歩く」時に見かけた車輛や、尾久驛にとまつてゐた不思議な車輛について聞いたときもこころよく敎へてくれた、生粋の鐵道ファンの從弟の雅純君に連絡したところ、「旧線のトラス橋は、撤去費用がかかりますから、そのまま水没でしょう。旧駅舎はどこかに再建保存される予定のようです」といふ解答でした。個々の施設もですが、それ以上に、なつかしい景色そのものが水没してしまふことが悲しいです。 

それと、かねてから疑問だつた、我が靑春の思ひ出の場所がわかりました。歸路立ち寄つた食堂で、吊り橋を渡つてたどりつく温泉宿はこの近くにありますかと聞いたところ、それは湯の平温泉でせうと敎へていただいたのです。早速ネットで調べましたら、たしかに、「群馬県の最北西部、川を跨ぐ赤い吊り橋をわたった先の木間隠れに建つ一軒宿の秘湯めいた温泉」が松泉閣といふ温泉宿であることが判明したのです。五十年前にやつかいになつたことのある懐かしい温泉です。ところが、松泉閣さん、現在は營業してゐないやうなのです。 

 

今日は木曜日、土曜日のさくらアカデミー 《源氏物語をよむ》 の豫習のために、靑表紙本で、新しく入つた〈若紫〉の卷の、「ある供人、明石の入道父娘のことを語る」と「源氏、紫上を見いだして恋慕する」を讀む。 

 

写真は、ネットの投稿から借用した、湯の平温泉松泉閣さんへの吊り橋とその温泉 


 

六月七日(金)舊五月五日(乙亥 曇天のち雨 

今日と明日開催される、神保町の古書會館の古本市に行つてきました。先週の雪辱をはたすために初日の今日、一〇時すぎに入り、じつくりと探索しまして、一二時を回つたころで出てきたのですが、外を見てびつくり。二時ころまでは降らないとの豫報を信じてゐたのに、すでに雨が降り出してゐて、古本屋めぐりの散歩どころではありません。そのままとつて返し、歸宅しました。でも収穫はありました。 

影印本では、『七人比丘尼・小倉物語』(出版社不詳) と 『師宣政信絵本集』(天理図書館善本叢書・八木書店) と 『熊野の本地』(室町物語影印叢刊・三弥井書店) です。これらが、以前の値段を知るものとして、どうしてこんなに安くなつたのか聞いてみたくなるやうな廉價なのであります。六國史や古記録、『史料綜覽』 などを探してゐたときもさうでした。あまりにも高價なので、ひかへてゐたのですが、あるときから値崩れをおこしたかのやうに安くなつたことがありました。買ひ求めるにも時があるのかも知れません。 

それと、中里介山の 『法然行伝』(ちくま文庫) といふのが目に入りました。あの 『大菩薩峠』 を書いた中里介山ですけれど、まさか法然さんにぞつこんだつたとは知りませんでした。これは三〇〇圓。 

 

明日の 《源氏物語をよむ》 の豫習をすすめるとともに、寺内大吉さんの 『念佛ひじり三国志』 も讀み進みました。平家滅亡後の朝廷側、後白河法皇や九條兼實などと、賴朝の思惑との絡み合ひが面白いところですが、そのたびに、『吾妻鏡』 と 兼實の 『玉葉』 の本文が引用されて、まるで歴史書を讀んでゐるやうです。できれば原文を直に讀みたいところですが、そこまで手が回りませんでした。それにしても信憑性が高まり、念佛宗がいかに體制に食ひ込んでゐたかがわかります。 

 

さくらアカデミー 《源氏物語をよむ》 の豫習のために、靑表紙本で、新しく入つた〈若紫〉の卷の、「源氏、紫上を見いだして恋慕する」を讀み、さらに同じところを複製の中山家本で讀んでみたところ、靑表紙本・河内本の本文とあまりにも違ひがはげしいので、讀み通すことができませんでした。 

寫本は、あの時代この時代の、名のある人々によつて寫し繼がれてきたのでせうが、それにしても寫し間違ひがひどい、のか、あへて書き直したのか。正しく書き寫さうなどといふ氣がなかつたのだらうか。 

 

六月八日(土)舊五月六日(丙子 曇天のち日が差す 

今日は、學習院さくらアカデミー 《源氏物語をよむ》 の講義がありました。前回は叔母の葬儀のためにお休みしましたが、今日の個所は 『源氏物語』 のなかでも際立つて有名といふか、可愛らしくて、心が引きつけられる場面ですから、だいぶ期待して臨みました。 

〈若紫〉の卷は、「光源氏が北山で幼い紫の上を垣間見てから二条院に迎えるまで」が書かれてゐます。この時、光源氏は十八歳。たまたま訪れた先でまだ幼い「紫の上」を見て、心を奪はれてしまふ場面です。 

 

〈靑表紙本原文〉 ひとなくて、つれつれなれは、ゆふくれのいたうかすみたるにまきれて、かのこしはかきのもとにたちいて給。人々はかへし給て、これみつのあそむとのそきたまへは、たたこのにしおもてにしも、ち佛すへたてまつりておこなふあまなりけり。・・・きよけなるおとなふたりはかり、さてはわらはへそいていりあそふ。中に十はかりにやあらむとみえて、しろきゝぬ、山ふきなとのなれたるきて、はしりきたる女こ、みえつることもににるへうもあらす、いみしくおひさきみえて、うつくしけなるかたちなり。かみはあふきをひろけたるやうにゆらゆらとして、かおはいとあかくすりなしてたてり。「なに事そや。わらはへとはらたち給へるか」 とて、あま君のみあけたるに、すこしおほえたる所あれは、「こなめり」とみ給ふ。「すゝめのこをいぬきかにかしつる。ふせこのうちにこめたりつるものを」 とて、いとくちおしとおもへり。

 

〈與謝野晶子譯〉 山の春の日はことに長くて徒然でもあつたから、夕方になつて、この山が淡霞に包まれてしまつた時刻に、午前に眺めた小柴垣の所へまで源氏は行つて見た。外の從者は寺へ歸して惟光だけを供につれて、その山莊を覗くと、この垣根の直ぐ前になつてゐる西向きの座敷に持佛を置いてお勤めをする尼がゐた。・・・綺麗な中年の女房が二人ゐて、その外にこの座敷を出たり入つたりして遊んでゐる女の子供が幾人かあつた。その中に十歳ぐらゐに見えて、白の上に淡黄の柔かい着物を重ねて向うから走つて來た子は、先刻から何人も見た子供とは一緒に云ふことの出來ない麗質を備へてゐた。將來はどんな美しい人になるだらうと思はれる所があつて、肩の垂れ髪の裾が扇をげたやうに澤山でゆらゆらとしてゐた。顔は泣いた後のやうで、手で擦つて赤くなつてゐる。尼さんの横へ來て立つと、「どうしたの、童女たちのことで憤つてゐるの。」 かう云つて見上げた顔と少し似た所があるので、「この人の子なのであらう」と源氏は思つた。「雀の子を犬君(いぬき)が逃がしてしまひましたの、伏籠の中に置いて逃げないやうにしてあつたのに。」 大變殘念さうである。

 

この場面、「北山の隙見(すきみ)」といふらしいが、「読者はのぞき見る源氏の視線に沿い、源氏の心理情動に従ってこの場面を受け取る」といふはなしです。たしかに「凝視する源氏にとっても、藤壺に生き写しのこの少女の発見が宿命的でさえあることを、しぜんに感得しうる」ところで、紫式部さん、よほど力を入れて書いた會心の場面なのでせう。 

 

昨日は降らないはづだつたのに降り出し、今日は今日で晝ごろから雨が降るといふので傘を持つて出てきたのですが、降るどころかしだいに晴れてきました。それで高圓寺の古書會館へも難なく訪ねることができて、夕方までゆつくり見て回ることが出來ました。 

今日の掘り出し物は、なんと言つても、歸りがけにガレージの隅に見つけた 『尾州家河内本源氏物語』 を翻刻した、秋山虔・池田利夫編 『尾州家河内本源氏物語』(武蔵野書院) です。全五巻のうちの四册が束になつてゐて五〇〇圓だつたのにはびつくり。重たくなるのを覺悟で買ひ求めてしまひました。一册の定價が昭和五十二(一九七七)年當時で四〇〇〇圓だつたのが、四册でこの値段とは、目にしたときには間違ひではないのかとさへ思ひました。五卷が缺けてゐましたが、いづれ探し出しませう。 

それと、『物語の生成と受容 ③ 国文学研究資料館 平成19年度 研究成果報告』(人間文化研究機構国文学研究資料館文学形成研究系「平安文学における場面生成研究」プロジェクト編) といふ長たらしい書名の論文集が二〇〇圓。目次を見ると、「『源氏物語』成立論再考」として、三つの論文と共同討議があつたので、そのうちの、「紫上系と玉鬘系」と共同討議を歸りの電車のなかで讀んでみました。 

復習ができましたし、あらためて敎へられるところもありました。ただ、例へば 『更級日記』 の著者が讀んだ 『源氏物語』 は、はたして順番通りだつたのだらうか、といふ問ひが出され、當時はみな卷ごとに手當たり次第に讀んでゐたのではないか。「『源氏物語』は、卷ごとに存在するものだ」、だから、『源氏物語』 は合册はやめて五十四分册で出版すべきだなんていふのは、(それはそれで持ち運びには便利ですし、現にぼくは切り裂いて分册にしてゐますが)、疑問に思ひました。たしかに、さう考へると紫上系だ玉鬘系だと分けることに意味があるのかといふことにもなります。けれど、實際にあの卷この卷と讀まざるをえない場合があつたにせよ、作者が意圖したやうに讀むのが最善であり、またそれを土臺にして研究がなされるべきではなからうか。學者の言ふことにしてはちよいといただけません。 

 

六月九日(日)舊五月七日(丁丑 曇天、肌寒い 

昨日讀んだ 〈若紫〉 の最も愛らしい個所、與謝野晶子譯では、「雀の子を犬君が逃がしてしまひましたの、伏籠の中に置いて逃げないやうにしてあつたのに」 とありました。 

實は、昨日訪ねた高圓寺で、『玉上琢弥先生退職記念特輯』(大谷女子大国文学会編) が三〇〇圓で、しかも冒頭になにやら 「雀の子を犬君が」 なんてあつたので、つい求めてしまつたのですが、よく讀んだら、玉上先生が 「谷崎潤一郎全集」の月報に書いた文章が載せてあつたのです。それによると、谷崎潤一郎の「旧訳では 『雀の子を犬君が逃がしてしまひましたの、折角私が大切にして、伏籠に入れておきましたのに』 とある」のを、「当時の幼児は目上に必ずしも敬語をつけない」から、「雀の子を犬君が逃がしたの」というふうにしてはと、重ねて意見具申したといふのです。はたして、新全集の第一巻が刊行されて、ぱらぱら見てみると、「雀の子を犬君が逃がしてしまひましたの、伏籠に入れておいたのに」となつてゐて、玉上先生、それがよいことであつたかどうか、「以後とくに意見具申に気を使うようになった」といふことです。 

でも、ここのところは、どのやうに譯さうと、なんと言つても原文のことばのひびきが可愛らしい! 少女の悲しさうなくやしさうな姿が目の前に浮かんできますものね。 

 

また咳がではじめた。先日和本を整理した頃からだから、江戸時代の埃にやられたのかも知れない。いづれにしても大事になる前に、やめてゐた喘息のための吸入をはじめました。 

江戸時代の埃といへば、江戸時代に出版された 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第廿一・廿二』 を讀了。きつとかういふ書物からも埃は吸つてゐるのだらう。むろん、それ以上のものを吸収してゐるからいいやうなものの、まあ、先は長くないから・・・・いいか。 

 

六月十日(月)舊五月八日(戊寅 雨 

終日雨。しかも寒いとなれば、ベッドのなかで本を讀むしかありません。 

で、寺内大吉さんの 『念佛ひじり三国志(三)』 を讀了。親鸞が登場し、「七箇條起請文」を天臺座主に提出し、さらに、「興福寺奏状」への對處、盲目の琵琶法師生佛の陰の働き、そして、鎌倉政權と後鳥羽上皇との陰濕な畫策が展開。迷惑をかうむつたのは、謀反の濡れ衣を着せられた宇都宮賴綱で、疑ひを晴らすために、篤信の念佛者だつた賴綱は即座に、「一族郎党六十餘人」とともに出家してしまふのでありました。 

『吾妻鏡』 元久二(一二〇五)年 「八月十六日 庚午 霽 今日宇都宮の彌三郎賴綱、下野國に於いて遁俗す(法名蓮生)。同じく出家の郎從六十餘人」 

と、まあ潔いのがいいですね。ずつと後になりますが、「嘉禄の法難」(一二二七年)の時には、賴綱は、千葉、澁谷といふ御家人たちとともに、比叡山の僧兵が「法然の遺骸」を奪ひにきたのを阻止して守つたのでも有名であります。 

が、もつと賴綱を有名にしたのは、文暦二(一二三五)年、賴綱所有の嵯峨中院山莊で、後に 『百人一首』 となる「障子色紙形」を定家に依賴したことでありませう。 

さう、この賴綱は「れんしよう」と言ひ、熊谷直實の蓮生は「れんせい」と呼ぶのでした。

 

このやうに、讀んでゐて頻繁に引用されてゐるのが、『吾妻鏡』 と 九條兼實の 『玉葉』、それに藤原定家の 『明月記』 であることはすでに書きましたが、その他に 『一言芳談』 もときどき引き合ひに出されます。考へたら、『一言芳談』 は、「法然の専修念佛の影響を受けた念佛者たちの言行を中心にした聞書集」なんです。『徒然草』 にも引用されるくらゐだし、むろん讀む豫定でしたが、すでに文庫本三種(岩波・角川・ちくま学芸文庫)と影印本が二種入手濟みですので、この際ですから、法然の弟子たちがどのやうに評されてゐたのか、またどんなことを言つてゐるのか、のぞいてみることにしませう。どうせですから、簗瀬一雄編 『一言芳談』(和泉書院影印叢刊) の影印書で、まづは引用個所から・・・。 

 

註・・・『一言芳談(いちごんはうだん)』 浄土往生を心の支えとして、世俗を捨て去ることを理想とした一遁世者が、自分の心にかなった法談を編録した書。鎌倉時代後期の成立。主として法然(源空)の念仏思想の影響を受けた念仏者の法談150余条を収録しているが、教理への関心は薄く、法然の説く本願他力の思想への理解は浅い。しかし、後世(ごせ)を願う念仏によって、名誉や利益に執する心を離れ、現世での生活を、必要の最小限にとどめて過ごすべきことを説いた片言隻句には、世俗の価値観に対する鋭い逆説が語られている 

 

 

六月一日~卅日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

六月二日 寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(二) 法然をめぐる人々』 (毎日新聞社) 

六月五日 森詠著 『風の伝説』 (徳間文庫) 

六月八日 加藤昌嘉著 「紫上系と玉鬘系」 (『物語の生成と受容 ③』 国文学研究資料館 所収) 

六月九日 玉上琢弥著 「『谷崎源氏』をめぐる思い出」 (『玉上琢弥先生退職記念特輯』 大谷女子大国文学会編 所収) 

六月九日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第廿一・廿二』 

六月十日 寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(三) 法然をめぐる人々』 (毎日新聞社)