「六月 讀書日記」 (一日~五日)

 

日記が書けなくなつてきたので、ダイジェストではないけれど、〈抄〉としてまとめて記載するやうにしたところが、なんだかまた書けるやうになつてきました。でも毎日は無理かもしれないので、今月から五日ごとにのせることにしました。まあ、今後どうなることやら、體調次第ですので、決めつけることはできません。 

 

六月一日(土) 今日は、さくらアカデミー 《源氏物語をよむ》 はお休みなので、餘裕をもつて神保町の古書會館を訪ねました。ついでなので、三日に川野さんと出かける豫定の〈はくたか〉の特急指定券と乘車券を御茶ノ水驛のみどりの窓口で求め、それから明大通りをくだりました。 

今日の古書會舘は、〈和洋會古書展〉といふことで、和本も多く出てゐて、何册か求めることができました。ただ、初日の昨日でしたら、きつともつと多く目にとまつたかと思ふと、ちよいと殘念でしたが、まあ今日でよかつたのかも知れません。 

その一册は、『倭漢朗詠集』、天明二(一七八二)年の版本です。現在、《變體假名で讀む日本古典文學》 の一册として、『朗詠假名抄』 といふ、和歌だけの 『倭漢朗詠集』 を讀んでゐるのですが、これは、いはば假名の美をもとめたところがあつて、だから、ときどきわけのわからないやうな變體假名が使はれてゐたりして、わざわざむずかしくすることもないのにと、いささか反撥を感じてゐたので、求めた 『倭漢朗詠集』 は書寫が第一義的のやうで、比べてみたらぐぐんとやさしいのがいいです。 

考へたら、變體假名を學ぶといつて、あんがい藝術作品の書を讀もうとしてゐるので、やつかいになつてしまふのではないかと思ひます。普通の寫本が讀めればいいのであつて、「傳紀貫之筆」とか、「傳藤原行成筆」なんていふのは、應用問題として挑戰すればいいのだと思ひます。そのてん、『建礼門院右京大夫集』 と 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖)』 はなんと讀みやすいことか。 

それとまた、桐箱に入つた、『中山家本源氏物語 すゝむし・まほろし』 (複刻日本古典文学館) を求めました。これは寫本といつても、先日求めた 『わかむらさき』 と同じやうに藝術的(?)な文字使ひです。まあ、『源氏物語』 の、それもすばらしい寫本の復刻ですから目にとまつたら買はないわけにはいきませんでした。もちろん豫算内で。 

お晝は、例のマジカレーでいただきましたが、完食できたのにはわれながらおどろきです。

 

ところで、昨日高圓寺で求めた、鹿島茂著 『成功する読書日記』(文藝春秋) をぺらぺらと斜め讀みしてみたらとても參考になりました。讀書日記として何を書き留めておくかについて、讀んだ本についての、「簡単な書誌情報+遭遇時情報+金銭情報」といふのは、すでに實行してゐるので我が意を得たりでしたが、さらに、「まずは引用、質より量、飛ばし読みOK」といふのはちよいと意外でした。 

さらに、「成功する読書日記・実践編」のなかの、コラム〈読書について私が知っているいくつかの具体的方法〉では、「メガネを買おう、照明を大切に、椅子も大切だ」の三つが參考になりました。また、「理想の書斎について」の章も讀んでよかつたですが、圖書館を利用せよといふところでは、そもそも圖書館には、ぼくが求めてゐる本なんかないのですからどうしようもありません、とひとりごつるのみ。 

ただ、〈増えた本の中から必要な本をどうやって探すか〉で、「カメラで書棚を撮影しておくこと」をすすめてゐたのには、目からウロコでした。 

 

六月二日(日) 終日讀書。寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(二) 法然をめぐる人々』 讀了。俊乘房重源については、奈良大佛復興のための勸進の責任者といふところから、義經逃亡のさいの「勧進帳」との關連が指摘され、さらに、平維盛がどのやうな最期を迎へたかが、信西の息子で法然に惹かれる僧都明遍の眼をとおして描かれてゐます。また、有名な大原問答の意味などが多角的にとらえられ、まさに裏からみた淨土敎史であり、鎌倉への政権移行期の裏面史であります。 

一應、帶の宣傳文句を寫しておきます。 

「現代(じごく)の闇を照らす 中世民衆像の原点! 法然没後七七〇年の一九八二年(昭和五十七年)三月、百万遍知恩寺の木造からこつ然とあらわれた法然の遺骨は何を物語っているのであろうか─法然と勢観房源智との師弟関係を超えた深い人間愛のエピソードを中心に、似絵師隆信、仏師運慶らが登場、物語はさらに裾をひろげてゆく・・・」 

ところで、『念佛ひじり三国志』 を讀んでゐると、『圓光大師傳(法然上人行状畫圖)』 で語られてゐることに遭遇して、まことに都合がいい。『圓光大師傳』 を讀み切つてしまつてもいいけれど、並行して讀んでいくのが得策かもしれない。

 

積んだままの和本を先日整理したばかりなのに、どこに何があるかが分からなくなつたので、もう一度分類しなほしました。ついでに、ダブつてゐる本をぬきだしてどなたかに差し上げることにしました。まあ、ほしい方はおそらくゐないでせうから、押しつけてしまひませう。 

 

六月三日(月) 川野さんと、今日は完成間近い八ッ場(やんば)ダムを見學してきました。リュックに昨日の「和本」をしのばせて! 

上野驛發七時五八分の新幹線〈はくたか號〉で出發。高崎驛で川野さんと合流して吾妻線大前驛行に乘り込みました。高崎までは四〇數分でしたのに、川原湯温泉驛まではまるまる一時間三〇分。それも、お喋りの途中で、あれ、長いトンネルだなあと思つて抜け出たら、そこが眞新しい川原湯温泉驛だつたのにはびつくりし、飛び降りました。ぼくの記憶のなかにある川原湯温泉驛は、吾妻溪谷を樂しみながら到着したはづだつたからです。 

それもさうで、降り立つた驛は、五年前に付け替へられた新線に設けられた驛だつたのです。知りませんでした。そもそも八ッ場ダムを見に行かうと聲をかけられるまで、記憶のとびらは錆びついてゐましたから、關心もありませんでした。 

持參した、先日ぶよう堂で求めた地形圖で確認すると、新しくなつた驛舎は、もとの驛から上流側に山一つ越えた、吾妻川からもはなれただいぶ高臺に位置してゐました。まだ工事中らしくて、驛の周りには商店も人家もまつたくありません。道路も未完成、土砂がほじくり返されてゐました。 

八ッ場ダム見學のための集合場所は、ダムサイト眞近の駐車場です。眞新しい道路を三〇分ほど歩いて到着すると、すでにたくさんの人が集まつてゐて、ダム愛好者の多さに川野さんと顔を見合はせてしまひました。 

ダムは完成を前にして後片付けにはいつてゐるやうに見うけられました。上流側からの眺めですが、それにしても大きなダムです。下流側からも見てみたかつたですが、まだ行かれないやうです。ただ、このダムが本當に必要だつたのかどうか、ぼくが生まれた年に計畫が持ち上がつたと言ひますから、七十年あまりたつての實現です! 

受付をすまし、豫定の一一時になると、一同展望場所に導かれて、係の女性から八ッ場ダムについての説明を受けたのですけれども、その聲にぼくはうつとりしてしまひました。よく通る聲でわかりやすく、ぼくはダムを見ながらも聲の持ち主にこころが傾いてゐました。 

はなしが終ると、ぼくはその女性に、湖底となる脇にかかる、小さな黄色の鐵橋が見えるけれど、あれは吾妻線の線路跡でせうかと聞くと、さうだとの返事。線路は取り去られ、ふたたび列車の姿をそこに見ることはできません。郷愁とでも言ふのでせうか、懐かしさがよみがへつてきましたが、それらすべてが深い水面下に没する運命にあるのでありませう。 

そしてその場で解散。各自自由に、といつても見學場所は限られ、食事する場所もたしかではありません。が、他の方々は車できたのでせう、一人も見られません。晴れ渡り日差しも強くなつてきた新しい住宅地のなかを、まづは八ッ場大橋をめざして歩きました。 

その八ッ場大橋の上からの眺めは絶景でした。正面にはダム。ほぼ眞下には元の川原湯温泉驛の跡が跡形もなく地ならしされてをり、先ほどの鐵橋はほんの一部で、驛近くには、トラス橋といふのでせう、まだ美しい吾妻川にかかる橋梁がそのまま殘されてをりました。 

橋の反對の上流側からも、吾妻川にかかる橋梁が見られました。線路こそはづされてゐましたが、その線路跡がくねくねとつづいてゐます。でも、人々が營々と築いてきたいとなみのすべてが水面下に没してしまふことを思ふと、なにやら大罪を犯してゐるのではないかとさへ思ひました。 

お晝は、新驛へもどる途中のしやれた食堂でいただき、驛到着後、やつてきた電車に乘り込んで歸路につきました。歸宅したら、一三三〇〇歩でした。 

 

六月四日(火) 今日は休息日。寢ころんで讀書。『念佛ひじり三国志(三) 法然をめぐる人々』 を讀みつづけました。こんどの登場人物は、はじめに、『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第廿』 にも出てきた天野四郎といふ盗賊がいかに往生できたかといふはなし。 

ここでぼくは、おやつと思ふ言葉に觸れました。「人間がなすべきことと、阿弥陀仏がなされることとを判然と区別してこそ他力信仰の出発がある」といふ言葉です。これはどういふことかと言ふと、「阿弥陀仏がお救い下さるのは、往生のことだけです。それ以外のこと、つまり人間が為したもろもろの業は人間自身が責任を取らねばならない。この人のような悪業には彼自身がつぐなわなければならない。つぐなったあげく、縛り首か斬首のとき阿弥陀仏は現れて下さるのだ」といふことなのです。 

このときの天野四郎とそれにたいする法然のことばがまたいい。 

「わかり申した。人間が為したことは、すべて自分でケジメをつける。かりにどんなケジメのつけ方になっても文句は言わない。そしてそのあと、死んでゆくときは阿弥陀さまがお救い下さる、ということですね」 

「そのとおり。最後はまちがいなく救って頂くと信じきれたら、人間は精一杯生き抜くことが出来るはずです。獄も処刑も恐れないでしょう」 

と言ふことは、阿彌陀佛は人間の道徳には關知しないといふことなのだらう。ふ~む。 

天野四郎につづいては、熊谷次郎直實が登場、法然に從ふまでの道のりとその苦惱について。

 

このへんで、氣分をちよいとかへて、先日百圓で求めた、森詠さんの 『風の伝説』 を讀み出しました。 

 

六月五日(水) 森詠著 『風の伝説』 一氣に讀了。やはり面白かつた。 

「フリーランスの“運び屋”北一馬は、このところツキに見放されていた。営業機であるダグラスDC3・ダコタ、“キャサリン”を何者かに盗まれた上に、6年間一緒に暮らしたウェンディに逃げられてしまったのだ。そこへある男から「キャサリンと引換えに、ある貴重な文化財を運んで欲しい」と依頼があった。キャサリンを取り戻したい一心の北は、中国奥地タクラマカン砂漠へと飛ぶが…。空を舞台に繰り広げられる長篇アドベンチャー」 

解説者が言ふやうに、「讀み終った後でも爽快な飛翔感が残る、それこそ風のような冒険小説」でありました。 

 

 

六月一日~卅日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

六月二日 寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(二) 法然をめぐる人々』 (毎日新聞社) 

六月五日 森詠著 『風の伝説』 (徳間文庫)

 

 

寫眞は、八ッ場大橋の下流側と上流側とを望む絶景! 兩方に吾妻線のトラス橋が見える。このまま水没するのか、それまでに撤去されるのか? 氣になります。