「五月中旬 讀書日記抄」 (十一日~廿日)

 

十一日(土)  

今日は土曜日、學習院さくらアカデミー 《源氏物語をよむ》 に出席。とくに質問することもなく、〈夕顔〉の卷を讀了。ぼくには再讀。次回からの〈若紫〉が樂しみです。 

ひきつづき、高圓寺の古書會館へ急ぎました。といつても急いで探すべき本はないのですが、それでも、柳田國男著 『菅江眞澄』(創元社・昭和十七年刊)、一〇〇圓也を發見。これは、二册まで讀んだ 「眞澄遊覽記」 をつづけて讀めといふことかしらん。 

さらに、『後鳥羽上皇と隠岐島 (史蹟と歴史の集大成)』(後鳥羽上皇聖蹟顕彰会・昭和五十年刊) が目に飛び込んできました。これはこれで、隠岐を訪ねよといふことか? 

歸路、高圓寺で夕食をと思つて探し歩いたけれど見つからず、結局例のワンタン麺をいただいて歸る。車中、寺内大吉著 『はぐれ念仏』 を讀みつづける。 

十二日(日)  

昨夜、寺内大吉著 『はぐれ念仏』 讀了。いやはや過激な内容です。直木賞を受賞した表題作はたしかに、「老僧、粉骨砕身す! 俗物に大変身した和尚の真意は?」といふ帶の宣傳文句そのままでもよいですが、續く「月影の里」「不老長寿」「梵唄鈔」はみなお寺の世界を暴露したやうな内容で、宗敎の違ひこそあれ、基督教だつて同じやうなものだと思ひました。まあ、著者が、『法然讃歌』 等を書き、淨土宗の總務部長だつた人だからいいやうなもの、でなければ暴露本と言はれさうです。しかし、それにしても過激で面白い! 

とくに、「梵唄鈔」は、聲明(しやうみやう)師を養成するはなしで、そのすさまじさには度膽が抜かれました。「『声明』とは、お経に節がついたもので、仏教寺院で僧侶が儀式の時に唱える男性コーラス、仏さまの教えを讃歎する仏教の聖歌」、グレゴリオ聖歌と比すべきものです。著者が引用した法然傳によれば、 

「建久三年(一一九二年)秋の頃。後白河法皇菩提のため、八坂引導寺にて安楽先達、住蓮助音をなして七日の調声念仏を修す。行人境内に蝟集、皆その美声に涕涙─これ六時礼讃の始めなり」 

といふいわくつきの聲明でありまして、この安樂と住蓮の兩人、のちにこの美聲に惹かれた後鳥羽上皇の女房らを引き入れたことによつて、不倫のかどで捕らはれて死刑に處せられたのでありました。さう言へば、中仙道を歩いてゐたとき、近江の武佐宿の近くで、「住蓮房首洗い池」といふ史跡に遭遇しました。『歴史紀行 五十三 中仙道を歩く(廿九)・(愛知川宿~草津宿)』 に詳しく書いたはづです。 

また、デジタルプレイヤーに幾種類かの聲明を入れてあつたので、それらを聞きながら讀んだので、より立體感がありました。 

今日はまた、《變體假名で讀む日本古典文學》 の順番で、大齋院選子内親王の 『大齋院前の御集』 につづき、『發心和歌集』 を讀みはじめました。序文と歌の詞書が漢文なのですが、歌だけに集中して、選子内親王の作品のみを集めた私家集ですから、神に仕へる齋院がどんな佛敎観をもつてゐたか關心がわいてきます。 

日本の古本屋に注文した北村季吟の註釋書 『徒然草文段抄』 の一から三までの三册が屆く。 

十三日(月)  

今日は、ぼくと妻の結婚記念日。一九七三年のことでしたから、何年目になるのでせうか。妻は結婚式當日の朝まで母親から結婚をやめるやうに言はれてゐたさうだし、ぼくも關學に入學したばかりで、前途多難の出だしでした。友人たちもすぐに別れるだらうとうわさしてゐたやうです。でも、それはぼくたちの出會ひの不思議さを知らないからで・・・・・でも、とにかく、ぼくの好きなやうに生かしてくれた妻には感謝の仕樣がありません。 

今日はまた、奇しくも、ぼくたちの結婚式後の會食で司會をしてくれた神田君が西宮から上京、神保町で待ち合せて一緒に食事をしました。晝食なのに壽司を食べようといふことになり、さぼうるの隣りの六法すしに入つてみました。晝の限定メニューは値段表にしたがつて注文。一二〇〇圓から三四五〇圓まで八通りあり、もちろん最低額を注文。それでもにぎりが大きくて、ぼくには全部は食べられずちよいと苦しい思ひをしました。 

結婚式の司式をしてくださつた小田垣先生は先日お亡くなりになり、ぼくも體調は萬全ではありません。いつ召されてもいいやうに心構へだけでも整へておかなければ・・・。 

ところで、大齋院選子内親王の 『發心和歌集』 を讀んでゐたら、ぼくの疑問に答へてくれるやうな歌がありました。參考書は、石原清志著 『発心和歌集の研究』(和泉書院) です。讀んでゐる影印の 『發心和歌集』 は、本書に掲載されてゐたのを切り離して用ゐてゐます。それにしても、本書はたいへん精緻な解釋書で、漢文の部分は飛ばして讀んでゐるのですが、まるで佛敎書のやうでもあります。 

今日の収穫・・・ 『古代説話集 注好選 原本影印並釈文』 (東寺貴重資料刊行会編 東京美術) と 草野隆著 『百人一首の謎を解く』 (新潮新書)  

十四日(火)  

終日讀書。昨日求めた、草野隆著 『百人一首の謎を解く』(新潮新書) 讀了。帶に「定家の企み、見破ったり。長年未解決だった謎に明快な解答を示す、百人一首の見方が変わる快作」とあるやに、はつと、氣づかされること多々あり。 

一つは、『百人一首』 といふ名は、藤原定家が亡くなつてから百九十年あまり後、連歌師たちによつて「發見」されてから「考案」された作品名であり、定家が「嵯峨中院山荘」(「小倉山荘」といふ山荘は存在しない!)用としてクライアントに依賴されて提出したのは 『百人秀歌』 と呼ばれるべきものであること。 

二つめは、先月、「埼玉県立歴史と民俗の博物館」で開催された 《特別展 東国の極楽地獄》 に行つた際、熊谷直實の法名を「蓮生(れんせい)」とよむのは、すでに「蓮生(れんしよう)」といふ人物がゐるから混同しないためであると言ふことを知りました。が、その「蓮生」こそ、定家に、「嵯峨中院山荘」のために「障子色紙形」を依賴したクライアント・宇都宮賴綱の法名なのでした。 

さらに、宇都宮賴綱は、宇都宮に根拠を置く武士の棟梁でしたが、同時に、深く淨土敎に歸依した僧侶でもあり、その法名が實信房蓮生であり、法然に從つてゐました。が、のちに法然の弟子、善惠房証空に師事し、証空と蓮生は没後同じの西山三鈷寺に葬られるほど熱心な信者だつたのです。ここで法然さんとその弟子の名前が出てくるとは意外でした! 

また、『百人秀歌』 が何のために作られたのかといふところの説明は説得力がありました。だから、みな名歌ではないのだといふことも、よく理解できました。それは、蓮生の信仰のなさしめるところであり、つまりは淨土敎の影響が色濃い歌集なのでありました。 

定家の子爲家の妻が宇都宮賴綱の娘であり、蓮生亡きあと、「嵯峨中院山荘」は爲家のものとなり、その際、『百人秀歌』 の内容が、今日に傳はる 『百人一首』 に改編されたのださうです。その理由も納得のゆくものでした。 

そして、その爲家の側室に迎へられたのがあの阿佛尼であつたこと。その阿佛尼に財産を渡さうとしたところから正妻側との裁判がはじまり、その訴訟ために鎌倉に下つた阿佛尼の旅が、『十六夜日記』 なんですね。あれこれがつながつてきて、とてもいい勉強になりました。 

とくに氣に入つたのは、著者がこれらの説を「学会で発表したものの、その会場での反応は実に芳しくなかった。その後論文として少しずつ発表したが、それに対する反応もにぶい。今のところ、反論さえ発表されていない」、といふところですね。何故、まつたうな説が受け入れられないのか、武田宗俊先生しかり、大野晋先生しかり、小松英雄先生しかり、みな閉塞した學界に負けずにがんばれ! と言ひたい。 

十五日(水)  

大齋院選子内親王著 『發心和歌集』 (石原清志著『発心和歌集の研究』所収) を讀了。十二日の日記にも少し触れましたが、ぼくの疑問は、神に仕へる齋院がどうして佛道を信仰したのか、またどんな佛敎観をもつてゐたかといふことでした。その選子内親王さん、實は、神に仕へつつ佛にも仕へるといふ「二律背反的相克」に惱んでゐたことがわかりました。 

まづは、五十五首あるうちの最初の歌 〈たれとなくひとつにのりのいかたにてかなたの岸に着くよしもかな〉。初つ端から求道の歌ですね。佛法の筏に乘せられて生死の大海を渡つて、彼岸の極樂淨土にまゐりたいといふ内容です。これが、齋院たる神に仕へるものの思ひであつてはならないことはよくご存じでした、それが第十九歌。 

〈いつる日のあした毎には人しれすにしにこころは入るとならなん〉 

朝日が昇るごとに斎戒沐浴して神前に額づいてゐますが、心の中では西方淨土を希求してゐるのですといふ内容です。少なからぬ葛藤があつたはづですね。 

また、最後の歌、〈いかにしてしるもしらぬもよの人を蓮のうみのともとなしてん〉 は、自分だけの信仰にとどまらず、「この世に在る無量の大衆に対して仏道を説き、命終に際しては、極樂の池に咲くという蓮の湖の友としたいものだ」といふのであります。これでは、「賀茂大神に奉仕する斎院であり、仏教を忌む立場にあるにもかかわらず」、佛道に傾倒してゐるといふおとがめは免れられませんが、不思議にもそのやうな批判や非難はみられません。 

むしろ、賀茂の齋院として奉仕してゐるために、佛道に専念できないと言つてはゐても、佛道に傾倒してゐるために齋院の仕事がおろそかになるといふことは嘆いてもゐません。 

要するに、齋王の役目は國家政權安泰のための儀式であつて、個人のたましいを救ふものではなかつたといふことがわかります。それにしても、十二歳から五十七年間を賀茂齋院としてつとめ、長元四年(一〇三一年)九月二十二日に老病により退下、同二十八日に出家できたときにはどれほど晴々したことでせう。 

ちなみに、選子内親王が傾倒したのは「天台法華宗の思想」であり、「釋敎歌集」ともいふべき 『發心和歌集』 が編まれたのが寛弘九年・長和元年(一〇一二年)、内親王四十九歳のときでありました。源信にはじまる淨土敎のはうが宮中や貴族のあひだでは一般的だつたと思ふのですが、どなたか導き手でもゐたのでせうか。さう言へば 『源氏物語』 が完成したのもこのころでした。 

選子内親王(九六四~一〇三五)は、村上天皇の皇女であり、一條天皇の皇后定子と中宮彰子等とともに三大王朝文学サロンを形成してゐました。しかも、紫式部が選子内親王サロンを常に意識し批判的であつたことは、大野晋先生の 『源氏物語』 によつて知りましたが、それは、紫式部の弟惟規の戀人が、選子内親王つきの女房のひとりであつたからのやうであります。『源氏物語』にも齋王(齋宮・齋院)が登場します。これからも注意して讀んでいきたいと思ひました。 

ついで、『圓光大師傳 第十一・十二』 讀了。『圓光大師傳 第十三・十四』 に入る。 

 


 

十六日(木) 

今日は川野さんと、二子玉川の静嘉堂文庫美術館へ行つてきました。川野さんが友人から招待券をいただいたさうで、それで誘はれて一緒に訪ねたのですが、いやはやなんと言つたらよいやら。國宝「曜変天目茶碗」が、休憩スペースの眞ん中に、ガラスケースの中に鎭座ましましてをられまして、それもぽつんと一碗のみ。實は、ぼくは、「伝存作は世界に三碗のみ」といふ國寶の曜變天目茶碗が、一堂に會しての展示かと思つてゐたら、それは勘違ひで、所藏してゐる他の二か所の大徳寺龍光院(京都)と藤田美術館(大阪)とがそれぞれ同時期に一擧公開といふことだつたのです。 

それにしても、川野さんぢやあありませんが、警備はどうなつてゐるのだらうと言ひたいくらゐの雜な展示で、ちよいと氣になりました。 

それはさうと、今回の企畫展は、《日本刀の華 備前刀》 ですから、いやでも應でも見ないわけにはいきませんでしたが、それがまたみなすばらしくて、こころを奪はれるやうな思ひに引き込まれました。それが、なぜかといふに、みなたんなる美術工藝品なのではなく、實際に使はれた刀ばかりだつたからです。 

それぞれの刀の説明書には、「砥数(とぎかず)を多く経てもなを、疲れの目立たない精緻で冴えた地鉄(じがね)は古備前物の特色を存分に示している」とか、「砥数を多く経て心鉄(しんがね)が所々に現れている」とか、當然刃こぼれのある刀があるといつたふうに、見てゐるだけでぞくぞくしてきてしまひました。この氣持ちは、他の博物館では味はつたことのない新鮮なものでした。 

備前岡山には森口君がゐるし、さう、法然の誕生寺にも近いし、いつかまた訪ねたく思ひました。 

歸路、二子玉川高島屋で平田牧場のとんかつをいただき、それから川野さんの希望で、日本橋にあるといふ地圖の専門店であるぶよお堂に寄つてみました。高島屋の銀座よりの通りをすこし入つたところにあり、それほど廣くはないスペースですが、あらゆる地圖がそろつてゐて、ながめるだけでわくわくしてきました。また、店員のお姉さんがすてきな感じでぼく好み、つい常陸太田と八ッ場ダム(やんばダム)のある長野原と例の隠岐の二萬五千分の一地形圖、おまけに「マップMEMO」まで買つてしまひました。 

川野さんとは銀座線日本橋驛で別れ、それから新橋驛SL廣場で開催中の古本市に行つてみたけれど、なんだかこころここにあらずで、一册も求める氣にはなりませんでした。 

といふのも、備前刀の數々を見たり、川野さんと刃物や砥石などの話をしてゐたら、なんだかまた木工をしたくなつたのです。歸宅後、妻にはなしたら、「賣るために作るのではたいへんだけれども、人に喜ばれるものをすこしづつ作るぶんには削りかすも多くは出ないだらうし、やつたらいいぢやあないの」、といふご返答でありました。たしかに萬力やグラインダー、小刀や鑿などの道具も作業場所も、それに材料は腐るほど用意してあるわけだし、體調のせいでやらないのは怠慢かなと思ひます。箸もいいけれど、刃物をいかすには皿を削り出すのがいいかも知れない。砥石にも息を吹き込もう!  

十七日(金)

今日は、妻が晝から淺草へ、三社祭の「びんざさら舞」を見るのだとか言つて出かけたので、留守番がてら終日讀書。まづ、『圓光大師傳 第十三・十四』 を讀みあげ、つづいて明日の 《源氏物語をよむ》 の豫習。 

明日から〈若紫〉の卷に入るので、その、「一・源氏、瘧病をわずらい、北山の聖を訪れる」と、「二・源氏、なにがしかの坊に女人を見る」と、「三・ある供人、明石の入道父娘のことを語る」を、靑表紙本で一四頁分を復習と豫習をかねて讀む。冒頭から、光源氏のお供の者が語る話題としてではあるが、いきなり明石の入道が、物語の伏線としてはあまりにも大膽に登場。丸谷才一さんも、「この挿話は『明石』の卷の伏線になっていますが、この伏線の張り方はたいして上手とは言えませんね」、と言つてゐるくらゐです。 

また、《變體假名で讀む日本古典文學》 の順番を考へれば、『源氏物語』 は高くて廣大な裾野をひろげた山脈にたとへられ、いつになつたら登り終へるのかわかりません。ですから 『源氏物語』 を別格として、その脇に聳える獨立峰を踏破していきたいと思ひます。 

その順番として、『發心和歌集』 の次は、『和漢朗詠集』 なのですが、手もとにあるのは、『朗詠假名抄』 といふ、變體假名好きにはこたへられない、漢詩を省いた和歌だけの折本なので、それで變體假名を學びつつ讀みたいと思ひます。 

十八日(土) 

學習院さくらアカデミー 《源氏物語をよむ》 は、今日から〈若紫〉の卷に入りました。讀みはじめるにさいして、〈若紫〉の卷は、同じ「紫上系」の〈桐壺〉に直結するので、〈桐壺〉の卷の復習といふか要點を確認しました。いままで讀んできた、〈帚木〉〈空蝉〉〈夕顔〉は「玉蔓系」で、いはば、「紫上系」の〈桐壺〉と〈若紫〉のあひだに挿入された短編集だつたからです。 

去年の七月にすでに讀んでゐましたが、復習といふより、より丹念に讀んでみようと臨みました。今日はそれでも、「一・源氏、瘧病をわずらい、北山の聖を訪れる」、「二・源氏、なにがしかの坊に女人を見る」、そして、「三・ある供人、明石の入道父娘のことを語る」の途中まで讀み進み、さつそく明石の浦の話題が出てまゐりました。 

實は、今日も午前中は神田の古書會館に、そして講義の後には五反田の古書會館をはしごしてまゐりました。それぞれ二日目といふこともあつて、人出は閑散としてゐて、ゆつたりと見回ることはできましたが、なんとなく戰意喪失といつた調子でした。それでも、和本の山から、『往生要集』 の中卷と下卷、鈴木正三の 『盲安杖』、それと、『信心勧草 悟道俚言』 といふ説教集のやうなものを見つけることができました。とくに 『往生要集』 はこれで上中下三卷すべてが揃ひました。 

『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十五・十六』 讀了。 

十九日(日) 

梅原猛著 『法然の哀しみ(下)』 がやつと讀み終りました。とても勉強になりましたが、ねばりのある文章なので、じつくり付き合はないとならないのがちよいとしんどかつた。 

法然の流罪と住蓮、安樂の處刑のかげには慈圓がゐたといふ考へにぼくも賛同せざるを得ませんでした。慈圓が「専修念佛の徒」への迫害の首謀者だといふのです。まだ、『四十八卷傳(圓光大師傳)』 の途中なのでなんとも言へませんが、この著者はじめ當時の人々は慈圓は天臺座主でありしかも法然に深く歸依してゐた兼實の實の弟でもあつたので、好意的な人物と理解してゐたやうです。だから批判的な目をむけてはゐないやうなので、ちよいと物足りないかも知れません。それにしても、表向きは善人にみせかけて、かげではあくどい事を平氣でおこなふ惡賢い人間のやることはえげつない。 

さわやかな風に誘はれて、木工道具を、十年ぶりに出してみました。ところが、小刀も鑿も刃物の刃は錆だらけ! 實に情けない状態でした。ただ、箸の材料の竹だけが燻した匂ひがまだ新鮮。しかも、ベルトグラインダーと萬力を出してきたら、それだけで腰を痛めたやうなので、これは前途多難の模樣です。砥石まで手が回りませんでした。 

廿日(月) 

終日讀書。このところ法然さんの周邊をたどつてゐますが、次は梅原猛さんにかはつて寺内大吉さんの著作 『念佛ひじり三国志(一) 法然をめぐる人々』 を讀みはじめました。先日、『はぐれ念仏』 を讀んでそこで知つた、これも毎日出版文化賞といふ賞をいただいた作品なのですが、その出だしが面白い。 

梅原猛さんの 『法然の哀しみ(下)』 のなかの第九章「法灯を継ぐもの」の第二節には、「仏教界をリードする藤原通憲の一族」がとりあげられてゐたのですが、平治の亂で無樣な最期を遂げたその信西入道こそこの藤原通憲であり、またその息子らの多くが僧侶となつて、はなやかな活躍をしてゐるのです。遊蓮房圓照(藤原是憲)しかり、安居院聖覺しかり、そして明遍僧都、みな法然の弟子となり、ひたすら念佛者としての生涯をおくつたのでした。『念佛ひじり三国志』 はこれらの弟子たちを主人公として物語がつづられていきます。 

法然さんのことはもとより、平家物語の時代の復習にもなりさうです。

 


 

五月一日~卅一日 「讀書の旅」   『・・・』は和本及び變體假名本)

 

五月三日 織田百合子著 『源氏物語と鎌倉―「河内本源氏物語」に生きた人々─』 (銀の鈴社

五月三日 『法然上人絵伝 第一~四』 (岩波文庫) 

五月三日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第五・六』 

五月三日 塚本善隆著 「法然の廻心について」 (『日本思想体系 第一〇巻 法然・一遍』 岩波書店 月報所収) 

五月三日 井上光貞著 「一遍と法然・親鸞」 (同右) 

五月三日 竹中靖一著 「石門心学の展開」 (同右) 

五月五日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第七・八』 

五月六日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第九・十』 

五月七日 石丸晶子著 『式子内親王伝』 (朝日文庫) 

五月七日 『式子内親王集』 (和泉書院影印叢刊) 

五月九日 釋義貫聞著 『但馬國福田村 おなつ蘇甦物語』 (山内文華堂) 

五月十日 『大齋院前の御集』 (笠間影印叢刊) 

五月十一日 紫式部著 『源氏物語〈夕顔〉』 (靑表紙本 新典社) 再讀 

五月十一日 寺内大吉著 『はぐれ念仏』 (学研M文庫

五月十四日 草野隆著 『百人一首の謎を解く』 (新潮新書) 

五月十五日 大齋院選子内親王著 『發心和歌集』 (石原清志著 『発心和歌集の研究』所収) 

五月十五日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十一・十二』 

五月十五日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十一・十二』 

五月十七日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十三・十四』 

五月十八日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十五・十六』 

五月十九日 梅原猛著 『法然の哀しみ(下)』 (小学館文庫) 

五月廿日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十七・十八』