「五月下旬 讀書日記抄」 (廿一日~廿五日)

 

廿一日(火) 『念佛ひじり三国志(一) 法然をめぐる人々』 著者が十年をかけて書いた全五巻のうち第一巻を讀了。藤原通憲(信西)の息子らを中心に、鹿ケ谷の陰謀、以仁王・源三位賴政の擧兵、平重衡の南都燒討ち。法然の念佛往生をあこがれつつ、これらの目撃者として活躍する弟子たち。「さきに高倉上皇の崩御に遇い、いままた平相国淸盛が死んだ。遠く鎌倉の源賴朝、越前にまで迫ってきた木曽義仲。ぶ気味な黒雲が平家の頭上をおおいはじめている」。といつたところまででした。 

つづく第二卷の帶には、著者のことばとして、「法然伝をくり返し読んでいるうちに、彼の周囲に集まってきた僧俗男女の群れに興味をいだいた。さまざまな境遇、性格、運命を持った人々である。その彼らがみんな法然によって救われているではないか。私はこの念佛ひじりたちを描くことによって法然の巨容の一端ををめるのではないか、と思った」、と記されてゐます。 

廿二日(水) 明日の特急券を買ふために、日暮里驛に行つたついでに、散歩としやれこみました。まづ 御殿坂の途中の本行寺をのぞきました。すでになんどか立ち寄つたことのあるお寺ですが、境内には、一茶や山頭火などの碑が建つてゐます。ものの本に、「景勝の地であったことから通称〈月見寺〉ともよばれていた」とあるやうに、種田山頭火の句碑には、「ほつと月がある 東京に来てゐる」とあります。また、山門からすぐ右手にある墓地を散策してゐたら、その「景勝の地」たる由縁の崖際に、愛犬・愛猫のための墓を發見。卒塔婆には葬つた犬や猫の名が記され、墓石には「縁ありてともにくらせし 愛しきものここにねむる」と刻まれてありました。 

もうお晝どき、谷中銀座におりていくと、ここも例にもれず外人の群れ。いつたいどうなつてるの、と言ひたい! それで、そのまま不忍通りにくだり、右折して道灌山下までぶらぶら歩き、さらに右に曲がつて西日暮里驛にいたり、そこでかき揚げそばをいただいて歸路につきました。およそ四八〇〇歩の散歩でした。 

歸宅すると、龜有病院から叔母さんが亡くなられたとの知らせが入りました。すぐに妻と出向き、從兄たちにあいさつし、なきがらに祈りをささげました。道子おばさん、一〇〇歳。よくがんばりました。 

實は、この一月に一〇〇歳を迎へた直後に入院し、以後點滴だけで生き延びてきたのでした。そしてまる三か月、たうとう命終が近づき、家族の者が待機してゐる状態だつたのです。妻もよく從兄從姉たちを病院に送り迎へしてくれました。 

廿三日(木) 今日は川野さんと、常陸太田市にある水戸光圀の隠棲地、西山莊(せいざんそう)を訪ねてきました。 

綾瀨驛發七時五五分、柏驛で〈ひたち3號〉に乘り換へ、さらに水戸驛と上菅谷驛でローカル線に乘り換へて終着常陸太田驛に九時五九分着。なんともひなびた田舎町です。川野さんとも合流し、バスの發車時刻を聞いたら一時間三〇分後だといふので、タクシーで西山莊に向かひました。 

着いた先は廣い駐車場で、そこには「西山の里 桃源」といふ、みやげもの屋といふか食堂の大きな建物がありました。が、そこも、さらに通り抜けた先にある庭園も無料、自由に見物できました。ところが、肝心の西山莊の入り口には嚴重な門を備へた、ガードマン付の受付の事務所があり、そこでなんと一〇〇〇圓の入場料金を支拂はされました。老人割引も障害者割引もなし! 

まあそれでも西山莊に入りました。入り口から表門にかけて光圀が紀州熊野から取り寄せたといふ樹齢三百年を超える熊野杉がそびえてゐまして、ご立派としか言へない風情をかもしだしてゐました。ところが、建物への入り口は裏口から、それも表門より立派な通用門を通り、ですからまづ守護宅といふ「西山莊を守護した武士たちの家」から見學。現在は展示室になつてゐて、年表やら寫眞、古文書などの展示物をしばらく見て歩きました。 

そのなかに、「尾張・紀州・水戸の德川御三家合作による作品」といふ色紙が展示されてをり、ちやうど讀めさうな和歌だつたので川野さんとあれこれ言ひながら變體假名をたどつてみました。どこかで讀んだことがあるなあと思つてゐると、それは數日前に讀んだ 『朗詠假名抄』 のなかにあつた、〈君ならて誰にかみせん梅のはな色をも香をもしる人そしる〉 といふ紀友則の歌で、やはり梅にちなんだ春の歌でした。 

しかもそれは、寛永十七(一六四〇)年四月、將軍家光に拝謁の折に顔を合はせた三人が即興的に制作したものだといふのですけれど、尾張・光義十六歳、紀州・光貞十五歳、水戸・光國十三歳の作だといふのですから驚きでした。光貞が一枝の梅を描き、光義が和歌を書き、光國が畫と和歌にたいする讃文を添へてゐる作品です。 

ちなみに、光國の國を改め光圀としたのは、天和三(一六八三)年、五十六歳の頃だといふことです。 

ところで、肝心の西山莊西山御殿(にしやまごてん)は草屋根で平凡な農家のやうなたたずまひでした。創建當時の三分の一の規模だといひますが、面影はのこつてゐるのでありませう、小高い山にかこまれて、ひつそり過ごすには最適な場所であり家屋ですね。あこがれてしまひます。光圀公、ここで大日本史の編纂や「封内を巡行」したりして、七十三歳で亡くなるまでの十年間過ごしました。 

川野さんが、「西山荘の緑と鴬の鳴き音が良かったです。深山幽谷ではないですが、深い緑にゆったりした気持ちでした。勿論、古文書解読も楽しかったです」、と感想を書いてくださつたやうに、鶯のうるさいほどのさえずりにつつまれて、それこそ桃源郷と言はれてもさもありなんと言つていい雰圍氣でした。ただ、草屋根の農家の見物に千圓出す人はさう多くはゐないやうであります。ぼくたちが見て回るあひだに二、三の年寄りが入つてきましたが、すぐに出ていつてしまひましたものね。 

ぼくたちは、西山御殿をあとに、咲き始めた菖蒲の花をめで、和風喫茶處の晏如庵で抹茶と和菓子をいただきながら、鶯のけたたましいとさへ感じるさへずりに心をまかせてしばらく休息。また食事處「桃源」でかき揚げそばをいただきました。 

歸路、川野さんが推奨する郷土資料館をめざして歩いてゐたら、途中、若宮八幡宮に遭遇しました。「応永年間(一四〇〇年頃)、佐竹義仁が(鎌倉)鶴岡八幡宮より勧請して太田城内に祀り、守護神としたのが始まりである」といふのですけれど、「参道の両脇には六本のケヤキが立ち並んでおり、その内の鳥居をくぐったすぐ右側にある一本は、古くから同社の御神木として崇められてきたもので、茨城県の天然記念物にも指定されています。根回りは14.05m、目通りは8.35m、高さは約30mで、樹齢はおよそ500年と推定されています」。とまあ、説明によればこのやうですけれど、あまりにも巨大な欅の木なのでしばらくながめほうけてしまひました。 

郷土資料館は「梅津会館」ともいひ、地元出身の實業家・梅津福次郎の寄付により、昭和十一年に建てられたものださうです。ぼくはきれいなトイレを使はせていただいて、氣分よくさいごの常陸太田驛までの坂道をおりてくることができました。 

水戸驛行の氣動車は歸宅する學生たちでいつぱい、その若さあふれる動きを目で追つてゐたら、まあ自分がいかに老いてきたかを痛感させられました。水戸線經由で歸る川野さんとは、水戸驛でわかれ、ぼくは特急〈ひたち20號〉に乘つたところが、次の停車驛は上野だといふのにはこれまたびつくり。なんとたくさんびつくりした一日だつたことでせう。 

さう、往きの電車の中で、昨日から讀みはじめた、格さんが書いたといふ、光圀の傳記である 『義公行實』 を讀みあげました。光圀没後、「水戸藩主綱條(つなえだ)の命で安積澹泊(あさかたんぱく)ら四人が編纂した光圀の漢文体伝記」で、ぼくはその「譯文」のはうを讀みました。 

廿四日(金) 夕方から、道子おばさんのお通夜が〈くらしの友〉で行はれました。この一月で百歳を迎へた、いはばおめでたい葬儀です。親族とともに、町内會の方々がたくさん參列してくださいました。 

『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十九・廿』 讀了 

つづいて讀みはじめた 『念佛ひじり三国志(二) 法然をめぐる人々』 の冒頭の主人公は似繪師藤原隆信です。隆信といへば、「藤原定家とは母を同じくし、肖像画にすぐれ、神護寺の源賴朝や平重盛の像」、それに法然上人像などを描いてゐることで有名ですが、「隆信に発した家系が代々念佛ひじりになつてゐる」ことははじめて知りました。 

その隆信が、「安德帝の生母、平淸盛の娘德子につかえている」右京大夫に、「こんどはあなたをかいてあげましょうね」と誘ひ、結局いい仲になつたのはいいのですけれど、二人は義兄妹であり、しかもすでに平資盛の愛人だつた右京大夫です。 

平家はすでに都落ち、その資盛はといへば、身重の北の方を法然のもとに預け、西海へと落ちのびていくのでありました。その資盛への思ひが 『建礼門院右京大夫集』 に詠はれてゐるやうなので、これも讀んでみたいと思ひました。また、法然があずかつた北の方が産み落とした男兒こそ、のちに、「法然の示寂まで身辺に随侍した勢観房源智その人」なのであります。 

廿五日(土) 道子おばさんの葬儀、今日はほぼ親族だけで靜かにとりおこなはれました。一〇時にはじまり、納棺してから四ツ木斎場へ。ほぼ一時間で火葬され、ふたたび〈くらしの友〉へもどつてから、會食をもつて解散となりました。 

まあ、葬式といふものは、親族の絆を再確認する場であり、缺けた者を補なつて、どのやうに人間關係を新たに再構築するかの、大事な儀式でもあることを思ひました。 

さういふことで、今日は 《源氏物語をよむ》 の講義を缺席。そのかはり、歸宅後、『國文學 建礼門院右京大夫集と問はず語り19798月号』 のなかの論文を二つほど讀みました。『建礼門院右京大夫集』 も 『とはずかたり』 も面白さう。それと、右京大夫の愛人のひとり、藤原隆信は歌人でもあり、『藤原隆信朝臣集 上下』 が、「元版群書類從特別重要典籍集」(和本) のなかにあつたので、書庫から出してきました。隆信は 『念佛ひじり三国志(二)』 ではまだしばらく登場のやうですので、ちらちら讀んでみませう。

 


 

 

廿六日(日) 今日は暑かつた。まだ五月だといふのに冷房を入れて、モモタとココとともに暑さをしのぎつつ、讀書に勵みました。 

『念佛ひじり三国志(二)』 に導かれ、『藤原隆信朝臣集』 をちらちら讀んでみませう、と思つたら、隆信は法然と出會つたとたん、畫人らしく、その「語る言葉よりも、まずその面貌に感動」、法然の手で出家得度し、戒心と法名をあらためて、その二十年後に六十四歳で死んだのでありました。と、このやうにまとめられてしまつたので、歌集のはうは、どうしませう。 

そこで書庫をふたたびのぞいたら、『建礼門院右京大夫集』(在九州国文資料影印叢書〈6〉) が目にとまり、そのそばに、中村眞一郎著 『建礼門院右京大夫』(日本詩人選〈13〉) があつたので、まづ、原文を影印を讀みはじめたら、その變體假名がまたすらすら讀めるといふか、書寫がわかりやすい文字なのでうれしくなりました。それに中村眞一郎さんの本も、註釋書としても、右京大夫をとりまく平家の公達との關係も面白く、引用された詞書と和歌を丹念に影印書で讀みつづけました。 

とりわけ勉強になつたのは、建礼門院右京大夫について、「古典文学(平安文学)への傾倒が並々ならぬものがあったこと、彼女の父の世尊寺伊行は、俊成などと共に 『源氏物語』 研究を確立した先駆的学者である。その 『源氏物語釈』 は 『源氏』 の最初の註釈書としての不朽の名誉を持っている。そうした伊行の書斎での姿を、右京大夫は幼年から見て成人した。彼女自身は王朝文学研究の学術的業績は残していない。しかし、『建礼門院右京大夫集』 の王朝的な優婉さは、彼女の幼時からの古典への没入のいかに深かったかを示して余りない」。 

しかも、紫式部や淸少納言の文學は、百五十年後のこの頃には、すでに古典であり、學問研究の対象となつてゐたわけです。その「王朝」の表現法と感受性とを、「文化遺産」として受けとつた源平時代の女房たちつて、えらい! 

さういへば、世尊寺伊行は能書家でもあり、五年前に、その著書、『夜鶴庭訓抄』(書論双書7) を讀んだのを思ひ出しました。ただ、くづし字に集中してゐたので、書道についてはほとんど覺えてゐないのが不甲斐ないです。 

廿七日(月) 今日も暑い。それでも、影印の 『建礼門院右京大夫集』 と、中村眞一郎著 『建礼門院右京大夫』 を讀みつづけました。でも、和歌個々の註釋だけだつたら、面白くはなかつただらうと思ふ。面白さのひけつは、中村眞一郎さんの次のことばにあるやうに思ひます。 

「右京大夫は、その晩年に自分の歌を集めて家集を作り、それぞれの歌を詠んだ時の状況についても、散文で書きそえている。だから、『建礼門院右京大夫集』 という書物は、歌集であると同時に回想録でもある。そこで、彼女のこの作品をはじめから読みながら感想や解説を加えていけば、おのずから彼女の一生の歌をひと通り見て行くことになるし、また彼女の生涯、それから彼女の生きた時代をも甦らすことになる」。 

さう、右京大夫の歌を通して、『平家物語』 の時代と人物が甦つてくるところが、なんとも魅力的なのであります。 

夜、BSで 『ミケランジェロ・プロジェクト』(The Monuments Men) を觀る。「第二次世界大戦下、ナチス・ドイツ軍によって強奪されたヨーロッパ各国の美術品を奪還すべく、戦場に向かった特殊部隊 “モニュメンツ・メン” の活躍を描く。ジョージ・クルーニーをはじめ、マット・デイモン、ビル・マーレイ、ケイト・ブランシェットなど豪華キャストが集結」。ただ、テンポがわるいといふか、時間の經過がわからないのが惜しい。 

廿八日(火) 今日は一轉して曇天の怪しい天氣。涼しいので古本探訪散歩に出ました。まづは柏を訪ね、しばらく喫茶店で讀書、『建礼門院右京大夫集』 を讀み進みました。晝食は麻布茶房の五目あんかけ焼きそばをいただき、それから太平書林さんの探索に入りました。例の北村季吟の 『増註源氏物語湖月抄(上中下)』 を三百圓で掘り當てたところです。で、今日は、小澤勇貫著 『選擇集講述』 といふ淨土宗發行の註釋書を見つけました。神保町でもなかなか見つからず、實は、このあと京成八幡の山本書店に立ち寄つたのですが、そこではなんと五四〇〇圓してゐました。それが五〇〇圓。掘出し物としておきませう。その他は文庫本で、今まで讀んだことがなかつた山岡荘八の 『水戸光圀』 と、五木寛之の 『親鸞 上下』、また氣分なほしに最適の森詠の 『風の伝説』、各一〇〇圓。 

また、柏驛から東武野田線・船橋驛經由で京成八幡驛下車。驛前の山本書店では、店頭の棚で、『源氏物語絵巻と徳川美術館』(朝日・美術館風土記シリーズ〈11) を見つけました。徳川美術館についてはまつたく知識がないので、參考にしたいと思ひました。これは二〇〇圓。まあ、四九〇〇歩でしたから、いい散歩といふことにしておきませう。 

ところで、「歌集であると同時に回想録でもある」、『建礼門院右京大夫集』 を讀んでゐて感じることですが、變體假名は和歌よりも散文のはうがずつと讀みやすい。歌の場合、そもそも活字でよんでもなにを表現しようとしてゐるのかわからないものが多く、解讀しにくい文字があつても特定しにくい。そのてん散文のはうはわからない文字でも文脈の力によつて讀み通せてしまひ、たとへ正しくよめてゐなくても、ときどき難解な語彙や言葉使ひに出會ふにしても、文章の理解にそれほど支障ありませんし、ストレスが感じられないですみます。歌はさうはいきません。その一字によつては、歌そのものが白が黑に、黑が白にも理解されることがあるわけで、一層ストレスがつのります。 

また書寫といつても、それ自體を藝術作品として書いた 「平安朝かな名蹟集」 などのやうなものと、自身の覺えや後世のために書き寫した寫本とでは文字使ひが違ふ。それは美しい字のはうが讀むにも樂しいけれど、『建礼門院右京大夫集』 の寫本のやうにわかりやすく書いてあるはうが變體假名を學ぶ者にとつてはより親しみがわきます。 

それにしても、先日讀み終つた 『大齋院前の御集』 は、歌の内容がよく理解できないので、變體假名の勉強にはなつても、ほんとうに讀んだことにはならないと反省してをります。 

廿九日(水) 今日はまた肌寒い一日となり、ひとり大工さんと建具屋に來てもらひ、歪んできた家の建てつけのわるいところを直してもらひました。 

讀書のはうは、法然さんの旅の途中でだいぶ脇道にそれた感じがしますが、『建礼門院右京大夫集』 を讀んでゐると、法然さんが生きた時代の裏側が見えてきます。 

それにしても、中村眞一郎さんの「感想や解説」が功を奏してゐて、「歌集であると同時に回想録でもある」 『建礼門院右京大夫集』 の著者の交友關係とともに、その時代の中でさう生きざるをえなかつた状況がよくわかつてきました。 

隆信と資盛との關係、その他の平家の公達とのつきあひとその悲劇的な最期、舊主人建礼門院訪問、そして西海で入水した資盛への哀悼と回想、さらに再度の出仕などを通しての歌のやり取りが、詞書とともにこまめに記されてをります。寫本(の影印)を讀んでゐると、時空を超えて右京大夫の思ひが傳はつてくるやうです。 

卅日(木) 昨夜おそく、『建礼門院右京大夫集』 と 中村眞一郎著 『建礼門院右京大夫』 を讀み終へました。今まで多くの和歌をよんできましたが、それらの多くは歌人がこのやうな思ひをこめて詠つた歌ですといふ程度で鑑賞してきました。ところが、この建礼門院右京大夫ほど深い人生の中から絞り出された歌をよんだことがないやうに思ひます。つまり、この歌集はひとつふたつの歌をとりあげて鑑賞するのでは意味がないといふ意味で、『建礼門院右京大夫集』 は右京大夫の人生とその生きた時代によつてもたらされた經驗の重さをとりあげないと、ただしく理解したとは言へないのだと思ひました。それほど、ひとつひとつの歌が右京大夫の人生の一齣一齣と深い關りにあるといふことです。 

おまけに、中村眞一郎さんの本は、二〇一二年十二月に古本屋で求めたのですが、もとの持ち主が出版(一九七二年)當時の新聞の書評の切り抜きを、ページにあひだにはさんでゐてくださつてゐて、これが、『建礼門院右京大夫集』 の専門の研究者が書いてゐるので、讀後より理解が深まりました(註)。古本萬歳! 

註・・・本位田重美「核心衝く的確な解説 原典の味に細心の配慮」。尚、新聞名は不明。 

ところで、今日は木曜日ですけれど、高圓寺の西部古書會館では古本市が開催。朝一で驅けつけました。先日の二〇〇圓均一では味氣ない思ひをいたしましたが、今日はどういふわけか、初日だからでせうか、めぼしい本があれもこれも目につきました。 

そのなかで、あれツ、と思つて手に取つたのは、新村出著 『南蠻更紗』(改造文庫 昭和十四年發行) です。中村眞一郎さんが 『建礼門院右京大夫』 のなかでこの本をとりあげてゐたからです。これをお導きと言はずしてなんと言はうといふ驚きです。 

「新村出は 『南蠻更紗』 所収の 『星夜讃美の女性歌人』 という文章のなかで、『かくの如く星座を讃美した叙景抒情兼ね揃った文字は、国文学史上の絶唱と云っても過言ではあるまい』 と述べている」 と、その讃美のことばを引用してゐたのです。とにかく、その歌の部分の原文を現代語譯で引用します。

 

251 十二月一日頃であったろうか、夜に入って、雨とも雪ともなく散ってきて、群雲の行き来がさわがしく、すっかり曇ってしまいもしないで、星が消えたり光ったりする。引きかぶって臥していた衣を、夜の更けた頃、丑二(午前1302時)頃かと思うときに、引きのけて、空を見上げたところ、特別きれいに晴れて、浅葱色であるのに、光が異様に強く大きな星が一面に出ているのが、ひととおりでなく興味深くて、薄藍色の紙に箔をうち散らしているのによく似ている。今宵初めて見初めた心地がする。今までにも、星月夜は見馴れていることだが、これは場合が場合だからであろうか、特別な心地がするにつけても、ただただ物思いに耽るばかりである。 

月をこそ眺めなれしか星の夜の深き哀れを今宵知りぬる 

 

「繰返へしていふ。舊日本の文學に於て建禮門院右京太夫は星夜の讃美の一節に於て無比の光彩を放ち、私たちは永久この女性歌人のスターを忘れてはならぬと云ふことを」 

ぼくも讀んでびつくり。新村出さんは、「星夜讃美の女性歌人」といふだけでなく、右京大夫の出自からその才能の豐かさを述べ、この 『建礼門院右京大夫集』 については、「時の女流作家の集とは選を異にし、歌そのものより寧ろ詞書が豐かであつて、恰も平家物語の小さな縮図とも見える」 と、ぼくが思つてゐたことをずばりと述べてゐるところなど實ににくい。 

ちなみに、『南蠻更紗』(註) には、「日本人の眼に映じたる星」、「星に關する二三の傳説」、「二十八宿の和名」、「星月夜」、「昴星讃仰」、そして、「星夜讃美の女性歌人」 という星に關する文章がまとめて載せられてゐて、『広辞苑』 編者の豐かな感性を思はしめられます。この文庫本がたつた二一五圓。 

註・・・『南蠻更紗』は、南蛮趣味の高まった大正13年、吉利支丹文化研究に先鞭をつけた 『南蠻記』 の姉妹編として刊行された。語源研究にすぐれた業績を残し、自由闊達で豊かな学識を持つ「広辞苑」編者の吉利支丹追憶と異国趣味溢れる研究エッセイ。 

高圓寺驛前の壽司屋でかるく貝づくしをいただいてから荻窪に行き、岩森書店とささま書店を訪ねました。さらに新宿驛經由小田急線で町田に行つたところ、高原書店が閉店してなくなつてゐたのにはびつくり。柿島屋で馬刺を食べてそそくさと歸路につきました。 

卅一日(金) 今日はまたどんよりとした天氣。このひと月の日記を整理し、また讀書に勵む。 

まづ、『念佛ひじり三国志(二) 法然をめぐる人々』、途中で寄り道してしまつたけれど、もどつてみたら、次の章の登場人物は、法然にかはつて大佛勸進上人となつた俊乘房重源。平重衡によつて燒き盡くされた南都奈良の復興の物語であります。そこに、新風を吹き込んだのが運慶、快慶といふ若い佛師たちで、「藤原様式の類型化した人形」にくさびを打ち込むやうな作品群を作り上げてゆくのであります。 

つづいて、一の谷で生け捕りされたその平重衡が法然に會ふことがゆるされ、そののち淡々と死におもむくさまが描かれますが、それにたいして宗盛の無樣さが強調されて、『平家物語』 を二度も讀んだはづなのに、さうだつたかと讀み直してみました。 

確かに、宗盛父子は、「近江國篠原」において首を刎ねられ、中仙道を歩いてゐる途中で、道路わきの籔のなかの墓を訪ねたことがありました。が、重衡ははたして、鎌倉の手によつてではなく、南都の僧兵たちに引き渡されて惨殺されたのでした。その重衡の今はの祈りの場面。 

「『・・・願はくは逆縁を以て順縁とし、只今の最後の念佛に依つて、九品託生を遂ぐべし』 とて、首を延べてぞ討たせらる」と、『平家物語』(卷第十二〈重衡被斬〉) にはありました。 

また、重衡は、建礼門院右京大夫の愛人資盛の叔父にあたり、右京大夫にたいしても、「資盛同様に愛してほしいと、冗談めかして口説いて」ゐたことが詞書に載せられてゐます。 

重衡は、平家きつての社交家であり、冗談好きの親切な人物だつたやうで、ぼくのイメージとはだいぶ異なつた人物像が浮かび上がつてきました。 

このやうに、「法然をめぐる人々」を見ていくと、平安時代から鎌倉時代への推移を目の當たりにするやうで、いままでになく勉強になります。 

 

ところで、ラムの生き證人といふかラムと同時代を生きた寅ちやんが二日前から姿を消し、妻と近所をさがしても見當たらず。やつと我が家に居ついてくれたなと安心してゐたのに、近ごろは食も細く、歩くのも億劫さう。老いた末の死路への出奔なのか。たまたま二十五日に撮つた姿が見納めか? わが身もさうありたい。 

 

寫眞は、「平宗盛卿終焉之地」 と 「住蓮房首洗い池」

 


 

 

五月一日~卅一日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

五月三日 織田百合子著 『源氏物語と鎌倉―「河内本源氏物語」に生きた人々─』 (銀の鈴社

五月三日 『法然上人絵伝 第一~四』 (岩波文庫) 

五月三日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第五・六』 

五月三日 塚本善隆著 「法然の廻心について」 (『日本思想体系 第一〇巻 法然・一遍』 岩波書店 月報所収) 

五月三日 井上光貞著 「一遍と法然・親鸞」 (同右) 

五月三日 竹中靖一著 「石門心学の展開」 (同右) 

五月五日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第七・八』 

五月六日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第九・十』 

五月七日 石丸晶子著 『式子内親王伝』 (朝日文庫) 

五月七日 『式子内親王集』 (和泉書院影印叢刊) 

五月九日 釋義貫聞著 『但馬國福田村 おなつ蘇甦物語』 (山内文華堂) 

五月十日 『大齋院前の御集』 (笠間影印叢刊) 

五月十一日 紫式部著 『源氏物語〈夕顔〉』 (靑表紙本 新典社) 再讀 

五月十一日 寺内大吉著 『はぐれ念仏』 (学研M文庫

五月十四日 草野隆著 『百人一首の謎を解く』 (新潮新書) 

五月十五日 大齋院選子内親王著 『發心和歌集』 (石原清志著 『発心和歌集の研究』所収) 

五月十五日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十一・十二』 

五月十七日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十三・十四』 

五月十八日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十五・十六』 

五月十九日 梅原猛著 『法然の哀しみ(下)』 (小学館文庫) 

五月廿日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十七・十八』 

五月廿一日 寺内大吉著 『念佛ひじり三国志(一) 法然をめぐる人々』 (毎日新聞社) 

五月廿三日 安積澹泊他三人編纂 『義公行實』 (義公生誕三百年記念會) 

五月廿四日 『圓光大師傳(法然上人行状畫圖) 第十九・廿』 

五月廿五日 大岡信著 「星空のあはれ─女流日記終焉期のふたり」 『國文學 建礼門院右京大夫集と問はず語り19798月号』 學燈社 所収) 

五月廿五日 中村真一郎・村井康彦 「対談・仮構の夢 建礼門院右京大夫集と問はず語り」 (同右) 

五月廿九日 『建礼門院右京大夫集』 (在九州国文資料影印叢書〈6〉

五月廿九日 中村眞一郎著 『建礼門院右京大夫』 (日本詩人選〈13〉 筑摩書房

五月卅日 新村出著 『南蠻更紗』 (改造文庫) そのうちの「星夜讃美の女性歌人」 

五月卅一日 鹿島茂著 『成功する読書日記』 (文藝春秋) 飛び飛び