正月八日(火)舊十二月三日(乙巳 晴

 

しぶとい 『河内本 源氏物語』 を讀み進みました。そしてどうにか〈桐壺〉を讀み終らすことができました。二〇一七年四月から五月にかけてが第一回、再讀が同年七月。第三回が、學習院さくらアカデミー、《源氏物語をよむ》 の講義でやはり同年十月の半ばに讀了。以上は靑表紙本でしたが、今回第四回は、河内本で讀んだわけです。 

以上、〈桐壺〉を讀むのははこれで四回目になるのですが、變體假名で讀んでゐると、文字に氣をとられてあまりよく讀めてゐないのでせうね。それで毎回なにか發見があつたり、疑問がでてきたり、それはそれで面白くありました。 

今回の河内本がはかどらなかつた理由は、しかし、變體假名がひねくれてゐるからだけでなく、靑表紙本とくらべながら讀んだためです。一文字二文字違ふところもあれば、どちらかが缺けてゐたり、逆に言葉を加へてゐたりで、けつこう文章が異なつてゐます。といつて、河内本のはうが讀みにくかつたと思ひます。

 

さて、さくらアカデミー、《源氏物語をよむ》 の講義がもう目の前に迫つてきてしまつたので、いきなり、〈夕顔〉に入ることにします。河内本で、どれだけ讀み進むことができるでせうか。 

 

また、『葛飾北齋』 を讀んでゐて、ふとインスピレーションがはたらいたのか、中野三敏先生の 『写楽 江戸人としての実像』 (中公文庫)(註) をとりだしてみたら、たぶん、北齋の友人として登場する、「阿波十七万石蜂須賀家の家老牟礼兵衛の倅で俊十」といふ、やはり繪書きの人物が、寫樂ではないかと思ひました。 

中野三敏先生によれば、寫樂は謎だといはれてゐるけれど、はつきりわかつてゐることがあるのだといふことを、三つあげてゐます。(一)江戸八丁堀に居住していたこと、(二)阿波藩の能役者であったこと、(三)俗称が斎藤十郎兵衛であったこと、の三點です。この點をふまえないで謎だ謎だといつてみなさん騒ぎ過ぎではないかと苦言を呈しておられるのであります。

 

それで、作者の小島政次郎さんが、このことを知つてゐたのかどうか、阿波から出てきた人物を北齋の友人に配してゐるのは、小説とはいへ、史實をふまへて描かうとしてゐるからであらうと思ひました。ちなみに、裏表紙に書かれた本書の内容を寫しておきます。

 

「一七六〇年、江戸本所に生れた時太郎、後の大画家葛飾北斎の九十年になんなんとする生涯を、遺された逸話をふまえつつも自在な文学的想像力と卓越した美術翫賞眼とによって活写した大河小説。史実の上からは謎に包まれている鬼才写楽を北斎の畏友に配するなど、見事な独創性をもりこむことにより、事実より一層真実な 〈人間北斎〉 に肉迫する。」

 

註・・・寛政六年(一七九四)から翌年にかけて、浮世絵界に忽然と現われて消えた画号「東洲斎写楽」。その素性についての「誰それ説」は枚挙に暇がないが、実はこの現象が加熱したのは、戦後のことに過ぎない。本書はまず、江戸文化のなかで浮世絵が占める位置を再考した上で、残された数少ない手がかりを丁寧に考証し、写楽が阿波藩士斎藤十郎兵衛であることを解き明かす。それを通じて、歴史・文献研究の最善の方法論をも示す。