「三月 讀書日記抄」 (十一日~廿日)

 

三月十一日(月) 今日で、東日本大震災から八年。人命輕視の政權がつづくかぎり、事態は惡くなつても良くなることはあるまひ。 

朝、齒科へ通院後、夕方まで讀書。リンダ・ラ・プラント著 『凍てついた夜』 讀了。六三〇頁もある分量を、ほぼ一氣に讀ませてくれた。續編も讀みたい。 

三月十二日(火) 群書類從特別重要典籍集 『紫式部日記 下』 讀了。内容の理解は大雑把であつたけれど、變體假名について言へば、ほぼ支障なく讀み進むことができた。 

つづいて、《變體假名で讀む日本古典文學》 の著作年代順からいへば少しさかのぼるけれど、群書類從の紀行部に入つてゐる 『いほぬし』 を讀むことにする。增基法師の著で、熊野紀行と歌集と遠江紀行から成る歌日記的な紀行。 

晝、外食に出たついでに、妻の案内で龜有圖書館に行つて、『凍てついた夜』 の續編 『渇いた夜 上下』 を借りてきた。圖書館は期限があるので、讀みかけた 『最後の刑事』 を置いて讀みはじめたら面白い。主人公のロレイン・ペイジが、こんどは私立探偵となつて大活躍。 

三月十三日(水) 川野さんと駒込の東洋文庫ミュージアムを訪ねる。「インドの叡智」といふ企畫展。だが、それよりも展示室入口の 〈モリソン書庫〉 には壓倒され、また、國寶や重要文化財となつてゐる文書をその材質によつて檢證する展示コーナーに興味を覺える。さらにまた、中庭をへだてたレストラン、オリエントカフェでカレーライスを堪能。 

つづいて、根岸にある、書道博物館を再訪。企畫展「歴史に名を残した日本人の書」を開催中で、空海、最澄をはじめ、菅原道眞、小野道風、それに源義家、楠木正成、織田信長などの武將、徳川光圀、松平定信、頼山陽等々の筆。

そのなかでもとくに目を引いたのが、「大石内藏助宛書状」! 赤穂四十七士の一人、片岡源五右衛門が、主君淺野内匠頭が江戸城松之廊下において吉良上野介をきりつけたことを赤穂にゐる大石内藏助に細かに報告してゐる文面です。これが、「忠臣藏」の發端となる刃傷事件を知らせる第一報の原文といふか本物だと思ひつつ、川野さんとその古文書(變體假名)全文を小聲で讀み通しました。ふ~む。 

歸路、寛永寺坂から東博の脇に出て、花見にはまだまだ早い上野公園を横切つて上野驛まで歩き、夕食には早い時間でしたが、構内の魚河岸まぐろ一代でお壽司をいただいてから川野さんとは別れ、ぼくは、水道橋の日本書房で、先日平臺で目にした、古典文庫の 『さごろも』 と 『抛入岸之波』 (一七四〇年成立、釣雪野叟編輯) を求めてから歸宅。 

三月十四日(木) 終日讀書。『渇いた夜』 と並行して、『いほぬし』 も讀み進む。また、《源氏物語をよむ》 の豫習をはじめる。 

三月十五日(金) 神保町と五反田の古書會館の古本市をはしごして、神保町では和本三種、五反田では單行本、杉浦明平著 『小説渡辺崋山 上下』 と、服部之総著 『親鸞ノート 正續』。和本はみなセットで、難なく讀めさう。 

『和字繪入 往生要集 上中下』(天保再板 源信著)、『南北相法脩身録 一・二・三・四』(文化九年・一八一二年 水野南北)、『假名法語 功德大寶海 上中下』(萬延元年・一八六〇年 香月院深勵) 

晝食は成光のラーメン、夕食は青砥驛構内のとんかつ屋でひれかつ定食。だんだん食がもどつてきたやうだ。ただ量が食べられなくなつてきたのが寂しい。 

《源氏物語をよむ》、〈夕顔〉の豫習として、靑表紙本を讀む。

 

十六日(土) 學習院さくらアカデミー 《源氏物語をよむ》 に出席。いつものやうに、大塚驛で途中下車し、驛ビル4Fの壽司屋で早めの晝食してから目白へ。 

〈夕顔〉はまだ途中だが、冬の講座が本日をもつて終了。次回は四月廿日から。

十七日(日) 雑司が谷の鬼子母神通りで、《46回 鬼子母神通りみちくさ市》 が開催され、その古本まつりに行つてくる。古本まつりといつても、一般參加型のフリーマーケットなので、商店街の軒先を借りて販賣。各自が持參できる册數はかぎられ、品數は少ないけれど、おやつ!と思ふものがあつたりして面白い。 

高山さんとは、東武デパートの天龍で餃子をいただく。生ビールもうまかつた。 

リンダ・ラ・プラント著 『渇いた夜 上』 讀了。『渇いた夜 下』 に入る。 

十八日(月) マリちやんとさとちやん來訪。綾瀨驛まで迎へに出て、晝食を堀切の大黒壽司でいただく。そして、夕方までわがやで積もる話をかはした。 

群書類從特別重要典籍集の 『いほぬし』 讀了。變體假名は讀めても、内容がよく読み取れず殘念。『群書解題 第三』 によれば、「家集的な色彩が濃いが、現存の和文の紀行としては土佐日記に相前後する古いものであり、歌も文もすつきりして優雅な趣きに富んでおり、宗教的な味わいも深いものになつているところに特色がある。この著者の風格は能因(九八九~一〇五〇?)や西行(一一一八~一一九〇)をしのばせるものがあり、遁世文学の先蹤とも見ることができる」とあります。 

ついでに、増淵勝一編著 『いほぬし本文及索引』(白帝社) 所収の 「『いほぬし』の成立をめぐって─增基の子聖源のことなど─」 を讀む。これを讀むと、增基が二人ゐたやうなことや、成立問題があることなど、學界として論爭の種につきないのだなあと感心もしたけれどあきれてしまふ。 

つづいて、《變體假名で讀む日本古典文學》 として、『いほぬし』(九二五か九五六) のすぐあと、寛和元年(九八五年)に書かれた、源信の 『和字繪入 往生要集』 を讀みはじめる。これは、『往生要集』 を、「やまとがなにやわらぐること罪に似たりといへども、一文不通のしづの身尼入道をも、あまねく讀やすく」するために書き直されたものですが、冒頭を讀むかぎり、くちあたりよく書き直してなどはゐないやうです。『往生要集』 は岩波文庫にもありますが、讀む氣がしませんでした。それが、變體假名の「和字繪入」ですから、俄然意欲がわいてきました。 

十九日(火) 今日は、『和字繪入 往生要集 上(地獄物語)』 を讀み進み、全三十六丁のうち、二十七丁の 「第七 大焦熱地獄」 まで了。石田瑞麿譯註の岩波文庫版 『往生要集』 と見比べると、端折るところがないばかりか、むしろ言葉を加へてより分かりやすくなつてゐる。むろん奇想天外なばかりで、想像だに及ばぬ内容ではありますが、平安文學や鎌倉淨土敎など、後世に多大の影響を與へた書ですから味はひつくしてみたい。 

また、明日の水戸散策にそなへて、正岡子規著 『水戸紀行』 をざつと讀み上げる。 

廿日(水) 水戸偕樂園の梅まつりに行つてくる。水戸ははじめて。ぼくは常磐線特急ときわ53號で、小山驛から水戸線經由で來られる川野さんとは水戸驛で待ち合はせ、まづは驛前に建つ黄門さまと助さん格さんにあいさつ。そこから歩いて弘道館を訪ねて見學。ところが、依賴もしないのにガイドさんがついてくださつたので、思はぬ勉強ができました。でも、展示されてゐる、扁額やら拓本、文書、書跡、その他種々の印刷物がむずかしくてなかなか讀めなくて殘念至極。 

「弘道館は、天保十二年(一八四一年)に水戸藩第九代藩主・徳川斉昭公の手によって創設した藩校で、教育によって人心を安定させ、教育を基盤として国を興すという建学の精神の下、儒学教育を礎に文武を磨く教育機関として機能しました」といふのですが、あの天狗党のことなどについてはまつたく觸れてゐなかつたのにはちよいと違和感をもちました。 

驛に戻り、バスで偕樂園に向かふ途中のうなぎ屋「ぬりや」によつて腹ごしらへ。だいぶ贅澤してしまひましたけれど、とても美味しくて大滿足。 

つづいて偕樂園に到り、義烈館では、讀めさうな古文書を目にして、川野さんと惡戰苦闘して變體假名を樂しみました。義烈館の「義」は義公(光圀公)、「烈」は烈公(昭公)のことださうです。 

さて、やつと偕樂園にたどり着いたころにはなんだか疲れてしまひ、廣大な園内をめぐりつくすべくもなく、まだ咲いてゐた梅の花を愛で、さう、「水戸の梅大使」のお嬢さんを愛でたわけではなく、ご一緒に寫眞を撮つたあとに、好文亭に入つてみました。すると、ぼくは別荘程度の建物だと思つてゐたのが、とんでもなく大きくみごとな「傳統建築」でした。 

そして、しめくくりとして、「大日本史完成之地の碑」を訪ねたのですが、見つけるまでにしんどい思ひをしてしまひ、バスに乘つて水戸驛に着いたときには、もう横になりたいほどで、疲れた顔どうし、またねと言つて別れました。