十二月廿九日(日)舊十一月廿三日(乙亥) 

 

いやあ、今日も刺激的な讀書の旅でした。 

氣になる參考書、『河内本源氏物語成立年譜攷─源光行一統年譜を中心に─』 を讀み出したらとまらなくなりました。『河内本源氏物語』 がどのやうに成立したか、それが知りたいと思つて讀みはじめたのですが、それを行つた源光行といふ人物とその生きた時代に興味が惹かれました。

 

まづ源光行は、淸和源氏に連なり、經基(六孫王)の子で滿仲の兄弟、滿政の子孫です。といふことは、滿仲の子孫である義家とその裔の源義康はじめ、源賴朝、新田義貞、足利尊氏、德川家康とも遠い親戚にあたるわけでして、すでに血筋としては他人だよと言はれれば返すことばがありませんが、一應確認しておきました。

 

それと、この源光行、長寛元年(一一六三年)に、つまり保元・平治の亂の直後に誕生してゐます。しかもその父の光季は、後白河上皇女御平滋子に從ふ武士でした。その建春門院滋子は東宮(後の高倉天皇)の生母で、淸盛の妻時子の妹に當たつてゐます。 

さらに叔父の季貞は、『平家物語』 にも出てきて、鹿ケ谷の陰謀で捕らはれた新大納言藤原成親の捕縛にたづさはつた人物でした。ぼくはここで 『平家物語』 を出してきて確かめましたら、たしかに檢非違使として登場してゐました! また、のちには平宗盛に隨行し、さらに、壇ノ浦では宗盛とともに捕へられ、一緒に鎌倉へ護送されてもゐるんです。 

ですから、いちいち確かめはしませんでしたが、『玉葉』 やら 『明月記』 やら 『吾妻鏡』 にもしばしば登場してゐます。このやうに、「光行の近親は平氏一色の感がある」、といふやうな人物です。 

 

しかし、光行は早くから藤原俊成を「師と仰ぎ、和歌の道はもとより、後年の 『源氏物語』 の校訂や註釈事業においても、常に先達として教えを乞うたことは、明らかである」、とありまして、「歌人としての活躍や、漢籍への造詣なみなみならぬ」人物として知られてゐたのであります。 

それで、俊成が撰した 『千載和歌集』(文治四年・一一八八年) にも三首入首。そのとき光行は二十六歳で、このころに息子、親行をまうけてゐます。 

もつとも、平家が滅びたのちは、父と叔父の助命に奔走し、自らも鎌倉に仕へることになります。賴朝が没したのち、賴家が征夷大將軍に就任するさいしては幕府重臣らと列座してゐるのですから、だいぶ厚く遇され、その立場もわかるといふものです。

 

鎌倉在住時には、あちこちで催される歌合にも參加してゐます。「同座」した人物を數へれば、おどろくほどの有力者や有名人の名があげられます。 

『新古今和歌集』 にも一首入手してゐます。一首だけなのは、鎌倉といふ地にゐたためのやうですが、のちに後鳥羽天皇に仕へ、その後鳥羽天皇による承久の變で、鎌倉に捕へられ、あわや斬首といふときに、今度は鎌倉で「功を積」んでゐた息子の親行の懇願によつて助らるのです。とにかく波瀾萬丈の生涯を送つてゐます。

 

ですから、手持ちの影印本の 『千載和歌集』 と 『新古今和歌集』 とを出してきて、光行の歌をたしかめました。さう、『徒然草』 にも光行の名前が出てくるのです。  

 

第二二五段 「多久助(おほのひさすけ)が申しけるは、通憲入道(信西)、舞の手の中に、興ある事どもをえらびて、いその禪師といひける女に教て、まはせけり。白き水干に、さうまき(鞘卷)をさゝせ、烏帽子をひき入れたりければ、おとこまひとぞいひける。禪師がむすめしづか(靜)といひける、此藝をつげり。是白拍子の根源なり。佛神の本縁をうたふ。其の後、源光行おほくの事をつくれり。後鳥羽院の御作もあり。龜菊にをしへさせ給ひけるとぞ。」 

 

龜菊とは、後鳥羽院の寵姫だつたやうで、その龜菊が承久の變の原因のひとつとあれば、光行も逃れるわけにはいかなかつたでありませう。が、自らは父と叔父の助命を願ひ、こんどは息子の親行に助けられたかつこうです。 

そのところは、『吾妻鏡』(承久三年八月二日の條) に詳しく、ネットで全文が引用できますので、借用いたします。現代假名遣ひになつてゐるのが殘念ですが。 

 

「八月二日 癸丑 大監物光行は、清久の五郎行盛これを相具し下向す。今日巳の刻金洗沢に着す。先ず 子息太郎を以て案内を通ず。前の右京兆、早くその所に於いて誅戮すべきの旨その命有り。これ関東数箇所の恩沢に浴しながら院中に参り、東士の交名を註進し、宣旨の副文を書く。罪科他に異なるが故なり。時に光行の嫡男源民部大夫親行、本より関東に在り功を積むなり。この事を漏れ聞き、死罪を宥めらるべきの由泣く泣く愁い申すと雖も、許容無し。重ねて伊豫中将に属き申す。羽林これを伝達す。仍って誅すべからざるの旨書状を與う。親行これを帯し、金洗沢に馳せ向かい父の命を救いをはんぬ。清久の手より小山左衛門の尉方に召し渡す。光行往年慈父(豊前の守光秀平家に與す。右幕下これを咎む。光行下向せしめ愁訴す。仍って免許す)の恩徳に報いるに依って、今日孝子の扶持に逢うなり。・・・」 

 

目に浮かぶやうな場面ですね。はるばる都から鎌倉の入り口、七里ヶ濱の金洗澤(註)にたどり着くや、鎌倉の「恩沢に浴しながら」、鎌倉の情報を後鳥羽院側に流したといつて罪科を問はれ、あはや誅戮といふときに、これを漏れ聞いた親行が奔走して父の助命を勝ち取る場面です。

 

と、そこで、肝心の 『源氏物語』 ですけれど、今日はここまで。 

 

註・・・「金洗澤」  『平家物語』によれば、文治元年(1185)に平家を滅亡させた源義経が、壇の浦で生け捕った平宗盛・清宗父子を護送してきたが、頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子の身柄だけ受け取らせたのは金洗沢の関であった。 

現在の、江ノ電、七里ヶ浜驛と鎌倉高校前驛の中間あたりです。