十二月廿日(木)舊十一月十四日(丙戌) 

 

今日は定例通院日。午後三時の豫約なので、晝食後に家を出て、西新橋の慈惠大學病院に向かひました。まことに中途半端な時間でして、行きにも歸りにもあまり寄り道ができさうにありません。 

擔當の醫師には、午前中の診察を求めたのですが、自分は午後の擔當だからといふことで押し切られてしまつたのでした。ミカ先生が出産のために、この四月から交代したためですが、また代はればいいのになあと思つて、診察が終つた歸りがけに聞いたところ、ミカ先生、無事出産されて來春四月から復歸なさるさうなのであります。これは朗報でした。もしや、再びミカ先生に、しかも午前中に診ていただけるかも知れません。

 

ところで、診察の結果は、血液檢査も心電圖檢査も格別なる變化もなく、順調だといふことでした。 

といふことで、安心して靜かなクリスマスとお正月を迎へられさうです。で、夕食は、神保町のアルカサールで、和風ステーキ一五〇グラムを、殘すことなく食べることができまして、充實した氣持ちで歸宅することができました。 

 

しかし、南條範夫著 『生きている義親』 を讀み進むことはできたのですが、讀み流すことができないのでまだ終はりません。 

内容が、足利氏の先祖のことのみならず、白河院から鳥羽院への、義家源氏から平氏隆盛の時代、さらには、平安時代から鎌倉時代への橋渡しをしてくれてゐるので、じつくりと讀む必要があるからであります。 

八幡太郎義家の子、叛逆義親が何度も斬首されては生きかへつたといふはなしは、ぼくはこれまでに聞いたこともなく、まつたく知らなかつたのですが、古記録にも記されてゐるので、これはこれで興味深いものがあります。

 

ぼくの手もとにある、『百錬抄』 はじめ、『朝野群載』、『中右記』、『長秋記』、『古事談』 にも、義親に關する記録が、それこそ當時の見聞として記されてゐるのです。まづは一級の史料といふべきでありませう。『生きている義親』 と出會はなければこんなにエキサイティングな氣持ちにはならなかつたでせう。よく、血壓が上がらずにすんでゐるものです!