十二月十八日(火)舊十一月十二日(甲申) 

 

今日は、半年ぶりに 《東京散歩》 に出かけてまゐりました。前回は六月廿一日でしたから、その間調子がよくなかつたことになるわけですが、またすでに何度も歩いたところでもあるので、氣がゆるんでゐたためとも言へます。まあ、とりあへず出かけてみる氣になつたこの機會をのがさずに家を出ました。

 

〈コース番號26〉コース名と内容─「七福神めぐり 淺草七福神 淺草駅~南千住駅 各社寺をめぐるコース。隅田川西岸の浅草寺(大黒天)などの9社寺を訪ねる。9つあるのは寿老人と福禄寿が2ヶ所ずつあるからだ。〔所要〕4時間」。 

南千住驛前の芭蕉像を一〇時二〇分にスタートし、ほぼガイドブックに從ひましたが、コース内容にある七福神めぐりはすべて無視して歩きました。 

端折つたのは、すでに訪問済みの前半の石濱神社(壽老人)と不動院(布袋)です。すると、南千住驛から泪橋に直にたどることができて、隅田川べりに出る大回りを省くことができました。

 

まあ、病ひ明けの散歩といふことで納得しつつ、泪橋の交差點を越して進むと懐かしい山谷です。高校・大學生のころ、中山牧師に連れられてしばしば訪れ、ぼくは集まつた子どもたちに紙芝居をやるのが仕事。でも當時の面影はまつたく見られません。 

右手に現れた交番を右折すると、そこはいろは會商店街。といふには寂れた感じが否めませんが、その途中で、酒屋さんの商品の物陰から、突然段平が飛び出てきたのには驚きました。段平とは、矢吹丈にボクシングを敎へたあの段平ですが、いくら段平がアル中の元ボクサーだからといつて、酒屋から姿を現すとは! すると、つづいて、土手通りに出た角に、こんどはジョーが立つてゐるではないですか。これまたびつくりでした。 

さう言へば、『あしたのジョー』(高森朝雄〈梶原一騎〉原作、ちばてつや画)は、ぼくが高校生から大學生にかけてのころ、『週刊少年マガジン』 に載されてゐて、よく讀んだものでした。その當時、だから山谷に出かけたわけではありませんが、あれからもう五十年もたつのかと思ふと懐かしさよりも、異次元に來た思ひがいたしました。

 

土手通りといふのは、吉原の見返り柳がある表通りで、左手に行けば山谷掘公園を經て今戸橋、隅田川へと通じてゐます。が、今回のコースは、その吉原を反時計回りにぐるりとめぐるやうなコースでした。途中の吉原神社には寄りました。辨財天を祀つてゐますから七福神のひとつですが、吉原の歴史を垣間見るやうな石碑がやたらに建ち、明治大正期の遊郭や大震災の寫眞なども掲示されてゐました。 

道は多少はくねくねと東に向かひ、沖田総司終焉の地でもある今戸神社(福禄壽)と待乳山聖天宮(毘沙門天)を訪ね、言問通りを鶯谷驛方面に向かつてひさご通りを左折。そこはもう淺草の繁華街でした。そのまま六區ブロードウエイといふすごい名の通りで、演藝ホールの角を左に曲がると、そのまま傳法院通りになりますが、途中の天健でのお晝を樂しみにしてがんばつて歩いてきました。

 

ところが、あるはづの建物はなくて、更地にされ、工事車が入つてゐるではないですか。これは誤算でした。しかたなく、向かひにある天藤といふ同じやうな店に入つたのはいいけれど、そのひどいこと。聲を大にしてまづいと叫びたい! ころもが具材を厚くおほつてゐて、エビの味もしないといふ現實に、ぼくは半分以上も殘して飛び出してきてしまひました。 

あとは惰性、淺草寺本堂から雷門まで、外人客でごつたがへす仲見世通を歩きとおして、今日のコースは完歩しました。正味は、九八一〇歩でした。

 

今日の寫眞・・・『あしたのジョー』の段平とジョー。吉原神社。最後は不味~い天丼!