十二月十七日(月)舊十一月十一日(癸未) 雨のち晴

 

今日は、第十一回になる《東山會》の足利歴史探訪の準備として、あれこれ本をひろげて讀みはじめました。もちろんただの觀光にはしたくはないので、歴史をたどるふうに、物語性をもたせようと思つてゐます。そのためには、足利氏の由來といふか、その歴史と足利に現存する史跡とがどのやうな關係にあるかをまづ確認しなければなりません。

 

はじめに手に取つたのは、邦光史郎さんの 『太平記紀行』 でした。その「第四章 幕府陥落、新たな抗争」の冒頭に、〈領國を接した尊氏と義貞〉とありまして、東武鐵道太田驛から歩いても行ける、太田市金山にある新田神社のことと、足利氏の出身地足利荘のことが述べられてゐて、考へたら尊氏を語るには新田義貞を考慮に入れなければならないことを敎へられたしだいでした。

 

足利教育会が出してゐる 『足利の歴史 ひらけゆく郷土』 とか、『足利浪漫紀行 知られざる歴史を訪ねて』(随想舎) とか、台一雄著 『足利歴史散歩』、それに、川上廣樹著 『正続 足利學校事跡考』 とか、觀光ガイドもどき本はすでに數册手もとに準備してはゐるのですが、ぼくの學び方としては、まづやるべきことは歴史のおさらひです。 

『正続 足利學校事跡考』 はそれでも影印本で、足利學校の歴史とその意義を知るには、是非讀んで臨みたいとは思つてゐます。

 

さらに、中公文庫版の佐藤進一著 『日本の歴史9 南北朝の動乱』、これは名著とされてゐる本ですから、肌身離さずなんていふほどではありませんが、しばしば參照してゐるのですが、今日はその 〈公武水火の世〉の章。とくに新田と足利の項は勉強になりました。

 

つづいて開いたのは、南條範夫著 『生きている義親』(角川文庫) です。昨日たまたま出會つた本ですが、これが面白い。そもそも、系圖をさかのぼると、德川家康も、新田義貞も、足利尊氏も、源賴朝もみな同じ清和源氏につらなる源義家の子孫なんですね! 前九年・後三年の役で活躍したあの八幡太郎義家(註)です。 

その義家の息子の一人が義親(よしちか)でありまして、その義親がこの本の主人公のはづなんですが、出てくるまでの父義家に關する話が面白い。といふか復習になります。 

また、この本は、書き方がいはゆる歴史物語小説ではなくて、現代の作家が、親しくしてゐる出版社の編集者と話し合ひつつ物語るといふ、ぼくにとつてもはじめてぢやあないかと思はれる書き方です。

 

それと、まだ讀むのは先になりますが、昨日求めた松崎洋二著 『賴朝挙兵に立ち上がる足利源氏 足利義兼』 も參考になりさうです。義兼は義家の孫、足利を名のつた義康の子であり、源氏擧兵に從つた武將のやうです。

 

足利市には、尊氏以前にすでに著名な遺跡や寺院がありますので、それらの位置づけをするためにも、できれば東山道(註)が作られた奈良時代、將門伝説がひろまつた平安時代、平氏政権との關り、足利荘が成立したころの鎌倉幕府との關係等々を視野に入れて讀みかつ學んでいかないと、訪ねた史跡や遺跡もうかばれないでせう。 

 

註・・・源義家 [10391106] 平安後期の武将。頼義の長男。通称、八幡太郎。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち、のち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を鎮定。東国における源氏勢力の基盤をつくった。

 

註・・・「東山道」 奈良時代当初は、東山道の枝道として東山道武蔵路が設けられ、上野国新田より曲がって武蔵国府(現・府中市)に至り、戻って下野国足利へ進むコース(またはこの逆)が東山道の旅程であった。すなわち武蔵国は、東京湾岸の令制国の中で唯一、東山道に属した。他の東京湾岸の令制国は東海道に属したが、元々の東海道は、相模国から海路で上総国・安房国を渡り、そこから北上して下総国方面に向かう経路が取られていた。

 

今日の寫眞・・・東山道武蔵野路ルート