十二月十二日(水)舊十一月六日(戊卯) 曇りのち晴

 

眞澄遊覽記 『わかこゝろ』 は詠吟紀行なのに、その詠吟紀行から詠吟を除いてしまつたら何になるのでせう。 

内田武志・宮本常一編譯 『菅江眞澄遊覧記1』(平凡社 東洋文庫) の〈まえがき〉で、宮本常一さんが、「この紀行文には、あまり上手でない歌が多数に挿入されており、また晦渋な擬古文が今の人たちの感覚にあわず、かえってわずらわしい思いを抱かせたこと」が、この書物の普及をおくらせた、だから「資料として価値あるところを現代文になおし」たのだとおつしやつてゐます。 

しかし、價値ある資料だけを殘すといふ考へ方でもつて、作品としての詠吟紀行をずたずたにしてしまつていいものなのかどうか、ぼくは疑問です。

 

その除かれた 「みだればし」 の歌を寫しておきますが、殘念なことに、どうしても讀めない文字があつたので□で埋めておきます。下線の部分が隠された文字です。 

 

「袖にちるゝ□のみたれハしの□こや此風の吹わたるらし」 

 

つづいて、讀んでゐたら、「桑原(くわはら)」といふところで詠つた、同樣の技巧、これは 『古今和歌集 卷第十 〈物名〉』 で取り上げれてゐる歌の技法なんですが、幸ひにも省かれずにあつたので、これも寫しておきます。 

 

「草枕かりねの露もおなしくははらはて袖に月やとさなん」 

 

こちらの草枕の歌なんて、ぼくにも理解できて、だから上手なのかどうかはわかりませんが、面白いと思ひます。省かれなくつてよかつたです。錦仁先生もさうおつしやられるのではないでせうか。

 

さらに、姥捨山に至つては、『大和物語』 から、「信濃の姨捨山の事」(一五六段)をまるごと引用して記してゐるのです。とくに、この段が、「歌に結びついた伝説的説話」であることを考へると、眞澄の和歌に關する造詣がさうたうに深いといはなければならないでせう。 

ぼくも、菅江眞澄は民俗學者だと思はせられてきましたが、直に本文を讀んでみると、むしろ風流人のやうな、といふか傳統的な歌人であるといふ印象が強くなつてきます。