十二月五日(水)舊十月廿八日(辛未) 曇天、一時晴

 

終日讀書。『源氏物語〈澪標〉』 讀了。靑表紙本で九四頁。最後のところは一氣に讀み通すことができました。『源氏物語』 全五十四帖の第十四帖でした。 

代がはりにあたり、娘の齋宮とともに都に歸つてきた御息所でしたが、源氏に娘の世話を賴んですぐに亡くなつてしまひます。娘を託された源氏ですけれど、下心ありありと御息所にも見透かされ、それでもなほ賴まれた源氏は、かつての藤壺にも相談して、二人の秘めた息子である冷泉帝のもとに入内させることに成功いたします。退いた朱雀帝からの所望もあり、それををいかにかはすかが惱みどころでした。 

 

つぎに、はがれた表紙などを修理した和本の 『いろは文庫』 を開いてみたら、内容は忠臣藏です。ちやうどいい時期なので、變體假名のお勉強もかねて讀みはじめてみました。 

ちなみに、この和本は明治十五年に出版されましたが、初版は天保七年(一八三六年)です。文庫本よりも小さくて、挿繪も入つて面白さう。

 

ところが、しよつぱなから變なのです。小山田重兵衛といふ、「既に齢ひも傾きて、八十一才の老衰となりたるのみか病氣ゆゑ連判状にはもれたれども心は變らぬ忠義の魂」が登場したとお思ひください。で、その重兵衛の息子の秀左衛門が討入に加はつたことをたのみとし、「賣來りし夜討の次第、義士の姓名記したる番附」を見たところが息子の名前が見えない。出入りの者に確かめさせたところが、凱旋した浪士に聞いても、小山田秀左衛門は見かけなかつたといふ報告ばかり。それどころか、大切な金を持ち逃げしたやうだといふ知らせを聞いて重兵衛さんはびつくりしてしまひます。 

さて、忠臣藏つて、こんな内容でしたつけ? 

 

註・・・テレビで、忠臣藏に關はつた寺井玄渓(てらいげんけい)といふ人物を知りました。 

寺井玄渓は、江戸時代前期-中期の医師。元和八年(一六二二)生まれ。大和の人。元禄十三年播磨赤穂藩の医師となる。藩主浅野長矩の江戸城刃傷事件のあと、京都で吉良邸討ち入り計画に参加し、息子の玄達を江戸に派遣して浪士の病気治療にあたらせた。討ち入り後は大石の委託に応えて遺族の面倒を見て回り、遺児赦免運動に奔走した。宝永八年(一七一一)死去。九十歳。浪士の仇討成功には、なくてはならぬ存在でした。 

 

今日の寫眞・・・テレビの猫番組を見てゐるココ!