十二月(師走)一日(土)丁卯(舊十月廿四日) 

 

今日も 『伊那の中路 眞澄遊覽記』 を讀み進みました。 

先日讀んだところでは、「洗馬宿を左に見て、大池村(東筑摩郡山形村)まで足をのばしてゐる」なんて書きましたが、實際は洗馬宿の北、奈良井川の左岸の丘陵にある釜井庵(註)を訪ね、天明三年(一七八三年)三月からほぼ一年四か月滞在してゐるんです。

 

そこでは、かつて知り合つた知人との舊交をあたためたり、遠く「悲劇の山」有明山をながめたり、七夕の行事をくはしく記し、また八日に起こつた淺間山噴火の樣子は實になまなましい。「死者二千名、埋没家屋千八百戸、降灰は関東一円におよび、江戸でも三センチの降灰をみたという」大噴火でした。

 

洗馬(せば)といふ地名については、「木曽義仲の家臣が義仲の馬を太田の清水で洗ったからだ」といふのは聞いてゐましたけれど、眞澄は、「戦国期、この地に城をかまえていた三村氏が城攻めにあった時、馬を米で洗い、水が豊富であるが如く敵をあざむいて、落城をまぬがれた故事があった」と傳へてゐます。 

 

註・・・「釜井庵」(長野県塩尻市大字洗馬2323-1) 戦国時代、(洗馬の裏山の)妙義山城主としてこの地方を支配していた三村氏が、山麓に設けた居館跡に建つ庵です。建築年代は、十八世紀の中頃と推定。江戸時代の文人・紀行家の菅江真澄が天明三年(一七八三)この地を訪れ、一年余を釜井庵を拠点として過ごしたことでも知られている。 

庵では、眞澄は、村の青年たちに歌や古典を教え、風流人たちと歌詠みの会を催し、土地の人たちと交流を深めました。また付近の由緒ある神社やお寺を訪ね歩き、土地の習俗や四季の行事を日記や写生帳に記録しました。 

 

モモタが、またひざ掛けの毛布の上に粗相をし、叱りつけてやりました! 

それにひきかへ、出戻りの紅葉と楓はどうして行儀がいいのでせう。トイレはきれいに使つてゐます。そばにもすぐにやつてきてぢやれます。できれば我が家で引き取りたいくらゐです。 

それなのに、モモタとココのトイレは汚い! 蹴飛ばすのでせうか、トイレ用のチップを部屋中に散らかしてしまふのです。まあ、しつけの問題なんでせうが、しつけも行儀もいい紅葉と楓をどうして遺棄してしまつたのでせうか? 

 

今日の寫眞・・・洗馬の「釜井庵」周邊の地圖。眞澄が描いた 『伊那の中路』 の挿繪。その釜井庵と七夕飾り。これを見ると、現在も眞澄の頃とかはつてゐないことがわかります。中仙道の旅では洗馬宿は通り過ぎただけでしたが、釜井庵を訪ねてみたく思ひました。