九月十八日(火)癸丑(舊八月九日) 晴のち曇天夕方大雨

 

童門冬二著 『異聞 おくのほそ道』 を讀み終へました(註)。物語は金澤まででしたけれど、芭蕉の旅とともに、當時の綱吉・柳澤吉保と水戸光圀との確執などが描かれてゐて、芭蕉をとりまく時代の樣子がわかつて興味深いものがありました。 

奥の細道を歩きたいと思つたことは事實ですが、その前に、素龍淸書本の 『おくのほそ道』 を讀んでみようと思ひます。實は、この寫本の變體假名はいままで讀んできたなかでも最も難解でありまして、なんかい手に取つてもすぐに放り投げてしまつてゐたのです。でも、この際ですから、旅の困難さにくらべたら屁の河童でせう。困難は、走つたり泳いだり、ラケットを振り回すことだけではありません。挑戰するのみ! 

それで、まづ、〈日光〉までを讀んでみました。一字一句、文意をたしかめながら讀んでいくとまた格別ですね。これなら歩けさうです? 

 

註・・・奇想天外、童門流 「おくのほそ道」。芭蕉と曾良の「おくのほそ道」行きに水戸光國の命を受けた介さんと、柳沢吉保の女密偵・すまが同行していた!? 鎖国・開国をめぐる江戸初期の政治駆け引きが繰り広げられる道中記 

 

鹿児島の友人から返事が屆きました。西南戰爭の折、政府軍に立ち向つた女子隊がゐたのかどうかといふ難問についてです。調べていただいた結果、殘念ながら史實ではなかつたといふことでした。 

でも、「鹿児嶋の女軍隊力戰の圖」 とか 「賊徒之女隊勇戰之圖」 といふ錦繪が作られたといふことは、ぼくの言葉で言へば、ゲリラ的な抵抗はあつたかも知れないと考へられるわけですし、また言ひかたをかへれば、さういふ抵抗がしたかつた、あるいはしてほしかつたといふ人々の願望がもとになつた作品群だつたと言つてもいいでせう。要するに當時の長州人が牛耳つてゐた政府がいかに嫌はれてゐたかといふことの證しなのかも知れません。なんだか今日の状況と似かよつてゐます。 

その長州人が日淸・日露戰爭をおこし、ノモンハン事件をおこし、そして太平洋戰爭をおこして廣島、長崎への原爆投下を誘發した張本人であることを歴史は證言してをり、それをぼくたちは忘れてはならないとあらためて確認しておきたいと思ひます。そしてまたそんな長州人を首相にした政府の暴走を認めるやうな人々の無關心がぼくにはたうてい理解できません。「女子隊」が求められる所以です。いい勉強になりました。