七月廿九日(日)壬戌(舊六月十七日) 曇りのち晴

 

考へたら、ユウガオは、他のアサガオ、ヒルガオ、ヨルガオとはまつたく似てゐませんよね。寫眞をみただけで、ぼくだつて、ユウガオは他の似かよつた三種とは違ふ種類の花だといふことがわかります。分類學的にも全く別の植物なんですから、はじめから似たやうな名をつけなければよかつたのに、とぼくは思ひました。 

それを、夕方に開花するからユウガオと名付けたために、朝、晝、夜にそれぞれ開花する三種と紛らはしくなつたのでありませう。 

 

北上してきた臺風が、關東地方をかすめて、靜岡の沖合を西に向ひ、三重に上陸後、近畿、四國、中國、そして九州地方へと、通常とは眞逆のコースをたどつて荒らしまはり、さらにどこへ向ふのか、大自然の驚異を目の當りにしながら、今日も讀書に勵みました。 

まづは、柴田錬三郎著 『眠狂四郎虚無日誌』 を讀了。面白くてどきどきして、一氣に讀み通してしまひました。 

 

それにたいして、『源氏物語〈夕顔〉』 は進みません。 

小君を使ひ、惟光の手引きによつて、夕顔に近づかうとする光源氏の前に、夕顔の夫、伊豫介が突如任地から上京してあいさつにきた場面には驚きました。 

 

「伊予介上りぬ。まづ急ぎ参れり。舟路ふなみちのしわざとて、すこし黒みやつれたる旅姿、いとふつつかに心づきなし。されど、人もいやしからぬ筋に、容貌かたちなどねびたれど、きよげにて、ただならず、気色よしづきてなどぞありける」。 

 

たしかに、源氏は思ひます。 

 

「『ものまめやかなる大人を、かく思ふも、げにをこがましく、うしろめたきわざなりや。げに、これぞ、なのめならぬ片はなべかりける』 と」

 

一應、後ろめたい氣持ちは抱いたやうなんですが、それでも、再び、こんどは夕顔を伴つて任地に赴くことを知り、源氏は惟光を急かせます。まあ、ぼくなんか信じられませんね。恥も外聞もないといつたところです。しかも、このあたり、能書きが多くて、話がなかなか進みませんし、展開しないのが實にまどろこしいのです。 

たしかに、夕顔に近づくことに成功し、その、おつとりとしつつも無垢な雰圍氣を備へ、高貴な風格こそないけれどもどことなく品がある不思議な女性であることにさらに惹かれ、 しかし、互ひに身分を明かすこともなく逢瀨を重ねる、といふあたりまで。 

 

それと、一昨日求めた、『一茶発句集』 は、調べてみたら、「「一茶の亡くなった二年後の文政十二年(一八二九年)冬、三回忌法要にあわせて一茶の門人十四名が編纂した一茶の最初の句集である」 ことがわかりました。手に入れたのは、まさにその初版でありますね。 

それがまた曰く付きの成り立ちなので、ちよいと寫しておきます。 

 

「収録句数は発句522句、俳諧歌15首でこれらの中、春の句と夏の句とを上巻に、その他を下巻に収め、それに碓房の序文と俳諧寺沙弥某の後書きと春甫の画いた一茶肖像とを添えて体裁としてもよくまとまった句集となっている。後書きによれば、文政10年冬、一茶の死を聞き伝えて、門弟達が駈けつけた時には、日頃机の辺に積み重ねてあった遺稿の類や俳書などが、何者の仕業か、すっかり姿を消して居たので、手の中の物を取られた心持で家に帰るより外に道がなく、この発句集の編纂に当っても、一茶が門弟の家々を訪れた時に書き止めておいた遺稿を取り出したり、或は市場の露店などに見当る一茶の旅行記等を買い求め、辛苦の末漸く上下の2巻としたという。善光寺仁龍堂版、俳諧寺社中校正」 

 

といふことは、完璧を期した句集ではありませんが、一茶と弟子たちを偲びながら讀むには最適かもしれません。 けれど、決してやさしいくづし字ではありません。

 

今日の寫眞・・・『一茶発句集』 にある、「春甫の画いた一茶肖像」。それと、讀書の邪魔をするモモタ。