五月廿五日(金)丁巳(舊四月十一日) 

 

『筑波問答』 を讀み進みました。といつても、書かれた年は一三七二年。年表によれば、足利義滿が將軍となつて四年目、『太平記』 ができた次の年、護良親王が率ゐる征西府が陷落した年であり、菊池武光が没する前年にあたります。ですから、このやうな南北朝の動亂の時代に、いはば餘業とも思はれるやうな、本當はさうではないのですが、連歌に關する書物が書かれたといふことが、不思議に思ひます。

 

あらためて、書いたのは、二條良基(一三二〇~一三八八)であります。南北朝時代の公卿・歌人・連歌師でありまして、初め後醍醐天皇に仕へ、のち北朝の天皇に仕へて攝政關白にもなりました。和歌は頓阿(とんあ)に學び、連歌は救濟(ぐさい)を師とし、ともに 『菟玖波(つくば)集』 を撰し、連歌の文學的地位を確立したといはれます。 

 

さて、その〈序〉ですが、著者とおぼしき人物が、「過ぎにし春の頃かとよ」、自宅の庭の「蛙樂を愛」してゐると、「松の戸をうちたたく人あり」。あけてみれば、「年は八九十にも成りぬらむとみえ」る翁がひとり。 

「此の(庭園の)山水ゆかしくてわざとまゐり侍る。あけてただ一目見せ給へ」といふので招き入れ、話をかはせば、「常陸のつくばのあたりのものなり」といふ。 

「むかし日本武尊の、新治の郡を過ぎて、甲斐國酒折の宮にて連歌し給ひしあとも、いまだ侍るなどかたるに、いよいよゆかしくなりて、『さては歌・連歌もこのみ給ひつらむ。此の道の事、むかし聞きおき給ひつらむふしぶしを、殘さずかたり給へ』といへば、 

『連歌の事は、まだいとけなかりし頃より、京極の中納言殿(藤原定家)、民部卿入道殿(定家の子、爲家)などにもことのゑんありて、時々まゐりかよひしかば、おろおろたづねあきらめ申しき。地下(ぢげ)の人々(一般庶民)は又明匠代々に數しらず侍りし事も、みな翁が命のうちの事なれば、おのづから御不審も侍らば、うけたまはりおきし事もありのままに申すべきなり』といふにつきて、先づ連歌のことをさまざま問答し侍りし」 

と、かうして以下、十七の問とその答が書き繼がれていきます。

 

一、問ひて云はく、連歌は我が國だけで翫ぶものか 

翁答云。連歌は天竺にては偈(げ)と申すなり。もろもろ經に偈をときたるは、則連歌也。唐國にては連句と申すなり(この「連句」の頭注には、「数人で集まって、一句あるいは二句ずつ詠じて、一篇の詩と成すのをいう」と記されてゐます)。 

我が國にては、歌をつらねたれば、連歌と申すにや。むかしの人はつづけ歌とぞ申し侍りし。 

 

今日は、第二の問と答まで讀みましたが、中身が濃いので、ここまでとします。 

ところで、光嚴天皇が叔父の花園院から學んだ連句といふのは、連歌としていいのでありませうか。まだ納得がいく説明に出會ふことができてゐません。 

 

今日の寫眞・・デイサービスの迎へが來るのを待つ母。それと、盗み見たわけではないのですけれど、一九九八年の母の手帳より。二十年前ですから、母が七十四歳の頃です。そのころ我が家は、父と母二人きりでしたから自由ではあつたと思ひますが、全頁のほぼ毎日が豫定で埋めつくされてゐます。妻とふたりで見ながら、これだもの、あと二か月半で九十五歳になるのに元氣なはづだと言つて顔をみあはせてしまひました。