五月五日(水)甲午(舊三月十七日) 

 

今日は寢轉んで終日讀書。『道誉なり(上)』 を讀みあげて、「下」に入りました。 

歴史史料で明らかなところは、あつさりと記しながら、その間の登場人物のやりとり、驅け引きなどは克明に描いてゐます。足利尊氏と佐々木道譽の對決がじつにいい。對決と言つても、ライバルとしてのやりとりですね。 

とくに興味深かつたのは、北畠顯家が再度の入京をはたそうとしての途上、靑野原で突然南に轉じて伊勢に向かつたことです。『史料綜覽 卷六 南北朝時代之一』 によれば、 

 

暦應元年(一三三八年)正月二日 顯家、義良親王ヲ奉ジ、鎌倉ヲ發シテ西上ス、既ニシテ、宗良親王、遠江ヨリ之ニ會シ給フ、直義、高師冬等ヲ遣シテ之ヲ拒ガシム、尋デ、顯家、美濃靑野原ニ戰ヒ、轉ジテ伊勢ニ入ル 

 

つまり、西上して入京するのであれば、當然近江を經るはづなのに、「轉ジテ伊勢ニ」向かつてゐるんです。しかも、迎へ撃つ足利幕府・高師冬の軍と戰つて破れたわけではありません。ぼくは、『歴史紀行四九 中仙道を歩く 赤坂宿~醒井宿』 では、なぜ伊勢に向かつたのか、曖昧にしてしまひましたが、本書では、佐々木道譽が近江通行を阻止したからだと書いてゐます。それがまた、じつに巧妙な、憎めないやうな仕方でして、「その陰に道譽あり」、なんて言ひたい氣分になりました。それが創作なのかどうか、著者に聞いてみたいところです。