五月三日(木)乙未(舊三月十八日・憲法記念日) 雨のちやむ

 

影印の 『竹齋』 の前半を讀み終へました。なかみが濃いといふか、含蓄深い内容で、ちよいと説明に窮したので、以下、ネットから文章をお借りしました。 

 

主人公竹斎はその「やぶくすし」(藪医師)ぶりにより都で食い詰め、「都にありてもさらに益なし」、「所詮諸国をめぐり、いづくにも心のとどまらん所に住まばや」と決心して、『伊勢物語』の東下りよろしく東海道をまず名古屋に下っていく。そして「天下一、やぶくすし、竹斎」の看板を出して患者を待つのだが、ここに至るまでで上巻は終わってしまう。 

前半の山は、都を離れるに当たって道中の安全祈願のために参詣する諸寺社の記述、とくに北野天満宮の繁盛ぶりを述べ、そこで行われている連歌・蹴鞠・狂言小歌・能楽・双六博奕・聞香・角力・酒盛・若衆の古典論議・その若衆への付け文等を細かく描写して当世風俗の縮図としているところにあった。ちょっと信じられないのは、若衆の古典論議である。 

「若衆たちのあつまり居て、源氏・万葉・伊勢物語、古今・論語に四書五経、難字不審をあらためて、あそび居給ふ其中に、一條殿か二條殿の御公達と打見えて、上人おはします」。この公達に一目惚れした京の市人が韻文体の玉章を送るという一齣もある。 

これらの「あそび」が目まぐるしく披露される祝祭的空間である北野神社を後に、竹斎と従者「にらみの介」とは街道を下るのだが、『東海道名所記』 とは違い、途中の描写はほとんどなく、地名を畳み込んだ道行文で片付けてある。 

上巻の最後は、なごやの小さき町に宿を借り、「天下一、やぶくすし、竹齋」と書いた看板を出したところまで。 

 

ぼくは、くづし字本文を讀むのに、日本古典全書の 『假名草子集(下)』(朝日新聞社) の翻刻を傍らに置いて讀みました。長々とつづく假名文字に漢字をあてはめてくれてゐるので、意味がよくわかるからです。しかも、その意味を頭註で明らかにしてゐるので、しつかりと讀むためには必要でした。とくに、佛敎用語などは、假名文字だけではまつたくちんぷんかんぷんです。 

ところが、岩波文庫の 『竹齋』 はまつたく役に立ちませんでした。下段に、いはゆる校正や校合、異同とでもいふのでせうか、たとへば、「わう─王」(「わう」は他の寫本では「王」とある)、といつた類の、一般の讀者にはほとんど必要のないことが書かれてゐるだけ。 

くづし字本を讀むには、どのやうな翻刻本を選ぶかといふことも大切に思ひました。 

 

『竹齋(下)』 はまたの機會にして、つづいて、北方版南北朝の五冊目の 『道誉なり』 に入りました。佐々木道譽は、近江を本據とする武士で、六波羅探題を捨てて逃亡してきた、北條仲時一族郎党が番場の蓮華寺で自刃するあたりの場面からはじまつてゐます。 

また、中仙道を歩いてゐたとき、柏原宿で、北畠具行の墓の標識を見かけましたが、殺したのが道譽だつたことを知りました。鎌倉に護送中、自領にて斬れといふ命令を受けてのことでした。 

 

註・・「北畠 具行(きたばたけ ともゆき) 正応3年(1290年) - 正慶元年/元弘2619日(1332712日)) 鎌倉時代末期の公卿。 

後醍醐天皇の側近であった具行は、元弘の変に中心的存在として参加。しかし計画が失敗したため、具行も幕府軍に捕えられてしまう。鎌倉へと護送されることとなった具行。この護送を命じられたのが、京極氏五代目・京極高氏(道誉)である。道誉は元弘の変において、幕府軍の一員として従軍し、事後処理等の任務にあたった。捕まった後醍醐天皇が隠岐島に流されたときに警護と護送を担当したのも道誉とされている。 

元弘2年(1332年)6月19日、護送の途中に幕府の命によって京極家の菩提寺・清瀧寺徳源院のほど近く、柏原の丸山で斬首された。具行が処刑された地に建立された宝篋印塔が、この北畠具行卿墓である。 

 

今日の寫眞・・《中仙道を歩く》で出會つた、「北畠具行卿墓」の標識と、その墓(ネットから借用)。