三月十四日(水)乙巳(舊正月廿七日 晴、暖かい

 

今日はいい天氣だつたので、ふとんをベランダに干してから、久しぶりに『東京散歩』に出かけてきました。ここのところ書斎にこもりきりだつたからです。 

第二十回になります。隅田川七福神につづく、谷中七福神めぐりです。が、コースとしては斷片的にではありますが、すでに歩いたことのあるところばかりです。

 

ガイドブックにはかうあります。コース名と内容─「七福神めぐり 谷中七福神 田端駅~上野駅 北区と台東区にある谷中七福神ををめぐるコース。七福神が描かれている色紙に朱印を受けることができるのは、元旦から七草の間だけ。ほかの時期は古寺めぐりの散策になる。〔所要〕3時間」。

 

出發は、田端驛。一二時〇五分スタートです。 

田端切通しを南に向かつて下り、その途中の田端八幡宮と隣接する東覺寺を訪ねました。この東覺寺が谷中七福神のひとつ、福祿壽を祀つてゐる、といふのですが、それが言はれてもわかりません。七福神であることがどこにも記されてゐないのです。 

まあ、先を急ぎます。田端から西日暮里に入り、つづく靑雲寺は惠比壽さんらしいのですが、ここも何の表示もありません。ただ、馬琴の筆塚と讀みやすいくづし字の句碑を見つけました。

 

すぐそばに、第三番目の布袋を祀る修性院。ここも、荒川區の教育委員会の説明板に、「修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、『日ぐらし布袋』ともよばれる」 とあるだけで、積極的に七福神を賣り物にしてゐませんね。 

ぼくがよんだ參考書には、「谷中七福神は、江戸から続き東京に現存する七福神のうちで最古の七福神」とありましたが、疑ひたくなりました。

 

あれ、ここに、「富士見坂」がありました。上の通りをあるいたことはありましたが、下から坂を上るのははじめて。ゆるやかな坂をゆつくりと上りながら、ときどき振り向きましたが、もはや富士山は見えなくなつてしまつたやうです。 

諏訪臺通りへ出て、右へ曲がれば、あとは谷中墓地までまつすぐです。慶應四年(一八六八)の上野戰爭で新政府軍が銃撃した弾痕が今も生々しい經王寺を經て、淺倉彫塑館につづく寺院通りを行くと、そば屋があつたので、たぬきそばをいただいて小休止。 

 

すぐとなりの長安寺が壽老人といふのですが、これもよく分からない。ここから谷中墓地に入り、五重塔跡を經て、天王寺は毘沙門天と思ひきや、ここも判然とせず。 

天王寺の脇の紅葉坂を下るとJR線の上に出まして、日暮里驛の南口の跨線橋をはじめて渡りました。いつたん臺地の下に降りたことになります。このまま線路に沿つて上野方面へ向かへば書道博物館に至りますが、その手前を右折して跨線橋を渡り、再び谷中墓地に入りました。 

工事中だつた澁澤榮一の墓は見つからず、ニコライさんの墓地の脇を通つて通りに出、そのまま進むと「下町風俗資料館付設展示場」といふ長たらしい名の、もと酒屋さんの交差點に出ました。左右の通りが言問通りです。もう何度も歩いた場所ですが、さらに直進すると、東京藝術大學の角の交差點にやつてまゐりました。ここを直進すれば東博や科学博物館に行きますが、左折してはじめての道を進みます。ここに、六つめの大黒天を祀る護國院。常緑樹に被はれて薄暗いお寺でした。陰氣な場所だなと思ひました。

 

そこからは下り道。淸水坂を下り、上野動物園に沿つた通りを歩くと開けてきました。モノレールの下をくぐり、そしてついに最後の辨財天を祀る辨天堂に到着しました。いやあ、これこそ七福神の賑はいと、ぼくはなんだかほつとしました。 

しかし、ゴールはJR上野驛です。だいぶ疲れてきましたが、京成上野驛を横斷して近道をとり、どうにかゴールを果たしました。 

でも、七福神めぐりをしたといふ氣分にはなれませんでしたね。 

時間は、一五時三五分で、正味、一二二五〇歩。また、ちよいと寄り道して歸宅したら、一五七四〇歩でした。だいぶ歩きすぎてしまひました。 

 

今日の寫眞・・靑雲寺本堂。左手の木下に馬琴の筆塚。松寿庵のメニュー。觀音寺の築地塀。ニコライさんのお墓。