三月十一日(日)壬寅(舊正月廿四日 曇り

 

今日の讀書・・『武王の門』 が面白くなつてきました。やはり、集中して讀まないと、舞臺の展開や登場人物の心の動きが傳はつてこないといふことがあるやうです。 

それと、歴史的背景といふか、物語の流れ全體のパースペクティブを得ておくことも必要です。そこで、森茂曉著 『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(角川文庫)の「征西将軍宮懐良親王」の章と、同じ著者の 『皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身』(中公新書)の同じ表題の章を讀んでみました。 

これらによると、この頃、實は、楠木正成も名和長年も、北畠顕家も新田義貞も戰死してをり、南朝軍は蟲の息の状態だつたことがわかります。その起死回生が期待されてゐたのが諸皇子のひとり、懐良親王であつたと言つていいのかも知れません。 

その活躍たるや、もはや、征西どころか、九州獨立王國を建設しかねない勢ひ。『武王の門』 では、まだ、やつと薩摩に勝ち、肥後の菊地に到着して、菊地武光との親密な關係がはじまつたところです。このあたりまでを 『史料綜覽』 で見てみると・・・

 

興國三年(一三四二年)五月一日 征西將軍懐良親王薩摩ノ津ニ著シ給フ(阿蘇文書) 

 

目的地は大宰府ですが、北九州は幕府側勢力に押さへられてゐるので、手薄な薩摩からの上陸となつたやうです。 

 

同五月廿六日 島津貞久、薩摩ノ南軍を撃タントシ、・・・(薩藩舊記) 

同五月 是月、是ヨリ先、脇屋義助、吉野ヨリ伊豫ニ至ル、是ニ至リ、病ニ罹リテ卒ス(忽那一族軍忠次第、太平記、尊卑分脈等) 

六月十九日 懐良親王ノ軍、薩摩新福城ヲ攻メ、島津貞久ノ軍ト谷山ニ戰ヒテ、之ヲ破ル(阿蘇文書) 

 

かうして、五年にわたる薩摩の島津との戰ひ、それは、軍勢を持たないで九州に來たわけですから、豪族などの在地勢力を糾合しながらの戰ひだつたのですが、を經て・・・ 

 

正平二年(一三四七年)十二月十四日 懐良親王、航シテ肥後ニ赴キ給フ(阿蘇文書) 

 

このやうに、肥後の菊地のもとへ進出するのですが、この間、全國各地で活躍してゐた南朝軍のことにも注目しておきたいと思ひます。 

 

興國五年三月 是春、宗良親王、信濃大河原ニ駐リ給フ(李花集) 

興國五年三月三日 出雲ノ南黨佐々木貞家、同國屋根山城ニ據ル(三刀屋文書) 

正平二年(一三四七年)八月十日 楠木正行ノ兵、紀伊隅田城ヲ攻ム(和田文書) 

同月廿四日 楠木正行ノ兵、北軍ト河内池尻ニ戰フ(和田文書) 

同九月二十日 東國ノ南軍競ヒ起ル、宇都宮某、亦吉野ヨリ下野ニ還ル(園太暦) 

 

さうですね、全國に放たれた野火のやうな南朝勢力はまだまだ衰へをみせてゐません。 

ちなみに、北方謙三は佐賀縣唐津市に生まれ、父親は外國航路の船長だったためか、海のことや船のこと、釣りのことなどは、自家薬籠中のものなのでありませう。このハードボイルド歴史小説においても例外ではありません。 

 

今日の寫眞・・朝刊の切り抜き。