二月十九(月)壬午(舊正月四日・雨水 晴のちくもり

 

今日の讀書・・冲方丁著 『はなとゆめ』 (角川文庫)を讀みはじめてみました。『天地明察』 と 『光圀伝』 にも興味があるんですが、これは、「清少納言の心ふるわす生涯を描く、珠玉の歴史小説!」といふことですから、現在の勉強の參考にもなり、冲方さんがどのやうな文を書くのか知るためにも讀んでみたい。 

それと、さくらアカデミー 《京都・王朝の記憶 『今鏡』を読む》 の講義が近づき、準備をはじめました。平安時代後期、院政期の時代を考察するには缺かすことのできない文獻なのであります。まづ、昨年八月の講義の復習をしたいと思ひます。 

さらに、『源氏物語』 ですが、紫上系の〈賢木〉まで讀み終はつたので、ここで挿入的部分である玉鬘系の最初のまとまりである、空蝉物語三帖を讀もうと思ひます。すでに〈帚木〉は途中まで進んでゐるので、そのつづきをそろそろとでも讀もうと思ひます。 

 

〈東京散歩十九〉つづき 

見番通りを南に直進すれば、三圍神社を經て牛嶋神社まで直行となりますが、さうはいかないのがガイドブックのいいところ。足袋のめうがやと木目込み人形の塚田工房さんといふ名店を經て、三圍神社には導かれました。 

「大國神・惠比壽神・三圍神社」。ふたつまとめて、これで、隅田川七福神を總嘗めです。

 

三圍(みめぐり)だなんて變はつた名前ですが、これは、文和年間(一三五三~一三五五)に、近江國三井寺の僧源慶が、當地に遍歴して來た時、小さな祠のいはれを聞き、社壇の改築をしようと掘つたところ、出土した神像の周りを、白狐が現れて三回めぐつて消え去つたことから、「みめぐり」の名が起こつたとされてゐます。 

このやうないはれのある三圍神社ですが、訪ねるのははじめてです。このあたりはなんべんも歩いたことがあるはづなんですけれど、關心と好奇心がないと實際に足をはこばないものなんですね。來てびつくりしました。樣々な形の石像や句碑がおびただしいのです。六十ほどあるさうです。ぼく流に言へば、くづし字のオンパレードです。すんなり讀めるのもあれば、難しいのもあり、じつに勉強になります。

 

例へば、寶井其角の 「夕立や 田を見めぐりの 神ならば」 といふ雨乞ひの句。詠んだ翌日に雨が降り、これによつて三圍神社の名が江戸に廣まつたといふのですから、はづすわけにはいきません。その句碑(今日の寫眞參照)、これはどうにか讀めました。 

その他、三越池袋店に飾られてゐたライオン像や、日比翁助の歌碑、宗因白露の句碑、朱樂菅江辭世狂歌碑等々、各自の興味にしたがつて樂しめることうけあひであります。 

 

以上で、隅田川七福神めぐりはすみましたけれど、コースはまだつづきます。 

〈すみだ郷土文化資料館〉では休憩がてら見學。むしろ、入口の植ゑ込みにある説明板の、佐多稻子舊宅跡だつたことのはうが興味深かつたです。 

牛嶋神社にもはじめて入りました。大きな社殿です。堀辰雄もなでたといふ〈撫牛〉もありました。關東大震災後、昭和のはじめに現在地に再建されたと言ひますから、神社もふくめて、隅田公園は、もとは水戸德川家屋敷跡だつたやうです。 

さて、枕橋を渡れば勝海舟さんが迎へてくれましたし、吾妻橋は目の前です。遊覧船に乗る人々でごつた返してゐます。橋を渡り、地下鐵銀座線淺草驛の入口をゴールといたしました。午後四時二〇分到着。正味、一三〇六〇歩。また、家を出てから歸宅するまで、一八一五〇歩でした。 

 

今日の寫眞・・三圍神社。寶井其角の句碑。佐多稻子舊宅跡の説明板。牛嶋神社にて。墨田區役所のわきに建つ 「勝安房」(勝海舟) の銅像。ゴールの吾妻橋。