正月卅日(火)壬戌(舊十二月十四日 晴のちくもり

 

今日は今年最初の通院日、西新橋の慈惠大學病院へ行つてまゐりました。顔色があまりよくないと自己診斷しましたが、血液と心電圖檢査の結果は良好と言はれました。まあ、惡くはなつてゐないといふことですけれども、ちよいと安心しました。 

女醫先生、産休に入るといふことで、次回からは、以前ずつと診ていただいてゐた古武士のやうな男先生に擔當が代はることになりました。ちよつと、でない大いに殘念です。 

 

その歸り、古本屋街はやめにして、新橋驛から山手線に乘つて上野驛公園口で降り、東京都美術館を訪ねました。「書海社展」に出展されてゐる楓さんの書を「鑑賞」するためです。他の作品とくらべても意味がありませんが、楓さんの作品は、一文字一文字が生きてゐるといふか、力量感があつて、ぼくは、前回のもですが文字として大好きですね。隷書といふのださうです。内容は、白居易の「新豐折壁翁」だといふのですが、理解できなくてすみません。 

 

楓さんの書を見ることだけが目的でしたので、あとはさらりと見渡して、さらに、動物園を横斷して、お寺を訪ねました。表門から入り、パンダパンダと騒いでゐる人だかりを避けて、モノレール乘り場に向かひましたら、すると、左手に五重塔がそびえてゐるではありませんか。はじめて見ました。それとも、見渡しがよくなつて見えるやうになつたのか、首を傾げてゐると、なんだ、ボタン園のある東照宮から見えた五重塔ではないですか。見る方向が違ふとかうも異なるものかとあきれてしまひました。

 

モノレールはあつと言ふまに終着驛。不忍池に、間違ひでなければバオバブの木が立つてゐました。これもはじめてです。本物かどうか、謎は謎として、池之端門から出て、不忍通りを渡り、路地に入りました。 

このあたりは、以前に何度か歩いたところなんですが、興味がなければ猫に小判。見てゐるのに見てゐなかつたわけです。お寺が五つ六つかたまつてありますが、そのひとつ、正慶寺の門前に立つと、「都史跡 北村季吟墓」と彫られた人の背丈よりも高い石碑が目に飛び込んできました(註)。 

さうです、『源氏物語湖月抄』 を書いた季吟さんのお墓です。源氏クラスメートと連れ立つてくればまた話も盛り上がらうといふものですけれど、ないものねだりはいたしません。しみじみとお參りいたしました。言はれてみなければ分からないほど平凡な墓石でした。 

 

註・・季吟は通称を久助といい、拾穂軒と号していた。はじめ医を業とし、後、京都新玉津島社の祝となり、安原貞室、松永貞徳の門に入り、後、京都新玉津島社の祝となり、安原貞室、松永貞徳の門に入り、和歌・俳語を学び、幕府の歌学所に補せられ、再昌院法印の称を受けた。著書に 『徒然草文段妙』 『枕草子春曙妙』 『源氏物語湖月抄』 その他がある。宝永二年(一七〇五)六月十五日、年八十二で歿した。円頂角石の正面に 「再昌院法印季吟先生」 とあり、右側面には丸に井桁の家紋と 「花も見す郭公をも待ち出つこの世後の世、おもふ事なき」、裏面に 「宝永二乙酉六月十五日、八十二歳卒」 と刻する。 

 

今日の寫眞・・楓さんの書。謎のバオバブの木。正慶寺門前の石碑と北村季吟のお墓。それと、正慶寺前に建つ大正寺にある、川路聖謨のお墓。