正月廿三日(火)乙卯(舊十二月七日 晴

 

今日の讀書・・『増註源氏物語湖月抄』、〈首巻〉に入り、發端といふ四十頁ばかりを讀みました。内容は、「此物語作者」とか、「大意」とか、「此物語の諸抄」とか、すでに多くの參考書で讀んだことばかりでしたが、頭註の「本居翁云」はすべて注意深く讀みました。宣長さんが何を言つてゐるか興味津々でしたが、それまでの古註を適確に論評してゐるところなんざあ、感心してしまひました。まともです。はい。

 

まづ、その「大意」ですが、抜き書きしてみましたが、これでは何の物語かわからないくらゐです。 

「此物語、好色妖艶を以て建立せりといへども作者の本意、人をして仁義五常の道に引いれ、終には中道實相の妙理を悟らしめて、出世の善根を成就すべしとなり。是に仍て盛者必衰、會者定離、生老病死、有爲轉變、の理を深くしめす。煩惱即菩提の文此物語の大意也。おほよそ管絃の道、詩歌のおもむき、時につけてしらしめ、物につけて敎へずといふことなし」。 

でも、一條兼良さんの 『花鳥餘情』 の〈序〉の中からのことばが癒してくれるでありませう。「我が國の至寶は源氏物語に過ぎたるはなかるべし」。このお言葉に從つていきたいです。

 

また、その頭註のなかに、幕末の人物のやうですが、「萩原廣道云」の文章があつたので寫しておきます。 

「すべて古今、學問といふことする人、多くはただ書籍(フミ)に書きたる事のみ讀ならひて、今の現(ウツツ)の眼前にあることをばさしもたどらず、ひたすら理といふ事をさきだてて何事も何事もその理におしあてかなへんとすることよ。 

そもそも學問といふ事は古の道を學ぶも、もはら古のありさまをしりてそれにくらべて、おのおの生るほどの世中のありさまをさとり、事の成るべきやうをも思ひめぐらさんためなるべきを、云々」 

と、まあ、このやうに「おのおの生るほどの世中」を知り、「事の成るべきやうを」さぐるためにこそ重要であると、このやうに言つてをられるのでありますね。さう、讀書、學問は、今に生かしてこそ生きるものなのであります。 

 

今日はまた、注文した、小學館の新編日本古典文学全集 『十訓抄』 が屆きました。『十訓抄』 はくづし字を學びがてら、すでに影印で讀み進んでゐましたが、語られてゐる意味が分からなくてずつと消化不良を起こしてゐました。いい現代語譯が出てゐない、と思つてゐたからでしたが、つい最近になつて、『源氏物語』 と同じ 新編日本古典文学全集ですでに出てゐることを發見したので注文したのでありました。 

さつそく、先日讀んだところの頭註と現代語譯を讀んでみました。その結果、讀みは間違つてはをりませんでしたが、なるほど、で、父上は立派な歌を獻上した息子に枕を投げつけたのか、といふことが分かりました。

 

つづけて、〈月報〉を讀みました。中世史専門の石井進先生の論文「改めて問われる『十訓抄』の価値と編者」と、フランス人のジャクリーヌ・ピジョーさんの「教訓の裏のもう一つの教訓」です。オルレアン生まれの、女性なんでせうね、日本古典文学(中世文学)専攻ださうですが、とてもよくわかりましたし、食欲、ではないさらなる讀欲がわいてきました。 

 

註・・『十訓抄』(じっきんしょう)は鎌倉中期の教訓説話集。編者は未詳、菅原為長、六波羅二臈左衛門入道(湯浅宗業に充てる説と佐治重家に充てる説がある)説がある 

仏典「十善業道経」に発想し、「十訓」こと十ヶ条の教誡を掲げ、古今和漢の教訓的な説話約280話を通俗に説く。儒教的な思想が根底を流れる。年少者の啓蒙を目的に編まれ、その後の教訓書の先駆となった。三巻/十編。 

序文には「広く和漢の書物に目を通し、その中から教訓となる話を集めた」と書かれている。平安朝を中心に本朝・異邦の説話280を収め、『大和物語』『江談抄』『古事談』などの先行説話集や『史記』『漢書』など引用書の範囲は広い。また、平清盛など平家一門の生活圏における説話に、作者が直接見聞したと考えられるものも含まれている。『古今著聞集』と重複する話も多い。「新訂増補国史大系」(吉川弘文館)、「新編日本古典文学全集」(小学館)、「岩波文庫」(岩波書店)所収。 

 

今日の寫眞・・二十一日(日曜日)朝刊の切り抜き。今日讀んだ 『増註源氏物語湖月抄』、〈首巻〉のことばなど、ここに竝べてもおかしくないでせう。歴史を學ぶといふことは、今を生きるといふことと切り離せないのであります。