正月十八日(木)癸卯(舊十一月廿五日 晴のち曇天

 

今日の讀書・・大塚ひかりさんの 『女系図でみる驚きの日本史』 を讀み終へました。これはぼくにとつては座右の書になりさうです。何がといつて、その系圖の多種多様さです。これは使へます。といふより、系圖をコピーしてファイルしておきたいくらゐです。 

ぼくも系圖作りは大好きで、飛鳥、奈良、平安時代や源平のころにかけていくつも作成してきましたが、かならず漏れがあつて、それは多くの關連書を讀んで調べて埋めていくしかありません。時には、作り直さなければならないこともしばしばです。 

ですから、大塚さんのこの本は、よほどたくさんの讀書の成果だと思ひますし、このやうに出版するときに、きつともつたいない、惜しいと思つたかも知れません。これは素人はもちろん、その道の學者さんだつてさうおいそれと作れるものぢやあありませんから。大塚さんにそれだけに敬意をはらつてしまひます。 

〈あとがき〉でかう書いてゐます。

 

「既存の系図集は、『どの父の子であるか』という男系図が中心だ」。しかるに、「私が好んで読んでいた平安古典の母艦たる貴族社会では、女のもとに男が通う婿取り婚が基本で、子供は母方で育つため、母方の影響力が物凄い。しかも不倫がばんばん出てくるから、DNA鑑定もない昔、確実なのは母方の血筋だけ、『信じられるのは女系図だけ』ということになってくる。・・・勢い、『どの母の子であるか』という、『女系図』を自分で作成する羽目になる。・・・あの人がこの人とつながっている! 女系図は、『作ってびっくり』の連続だ。本書には、女系図だからこそ見えてくる、新発見の歴史があるはずだ」。 

このやうに、見得を切つてをりますが、切らせてあげませう。それだけ物凄い作業だつたと思ひます。 

 

例へば、直接「女系圖」とは關係ありませんが、今讀んでゐる 『源氏物語』 との關連で言へば、一條天皇の第一皇子は、定子さんの子の敦康親王ですが、藤原道長は、外戚を失ひ母定子も亡くした敦康親王を退けて、我が娘彰子の子、第二皇子である敦成親王を天皇にしてしまひます(後一條天皇)。このことを踏まへて・・・。 

「『源氏物語』 で、外戚を失いながらも、准太上天皇の地位にのぼる源氏のモデルの一人は、この敦康親王と言われる。源氏が五歳年上の父帝の愛妃藤壺中宮に憧れ、密通に発展したという設定の陰には、敦康親王の母代わりを誠実につとめた十一歳年上の彰子中宮(彼女の後宮での局はしかも藤壺だ)の面影があったかも知れない」。 

源氏のモデルは色々と言はれてゐますが、敦康親王もその一人だと言ふ指摘ははじめてです。 

 

また、手塚治虫の 『奇子(あやこ)』 を例に、平安後期の上流階級の亂脈を極めた性關係のありさまを分析したとこなんざあ、壓卷ですね。その他、「後家の力」はバカにできないこと、「学者と醜(しこ)パワー」について、德川將軍家は女系圖ができないこと等々、讀みどころ滿載でした。 

 

それと、講談社學術文庫版 『増注湖月抄(上)』 の、一九二七年(昭和二年)に出版された時の 〈自序〉 と 〈凡例〉、それにつづく本文の 〈首卷〉 を讀みはじめました。いやあ、根氣のゐること。しかも、〈首卷〉 だけで二三〇頁もあるのです。數頁讀んで寢てしまひました。 

 

今日の寫眞・・大塚ひかり著 『女系図でみる驚きの日本史』 と、講談社學術文庫版 『増注湖月抄(上)』。この分厚いこと!