正月十七日(水)己酉(舊十二月朔日・朔 曇天のち雨

 

今日の讀書・・今日は通院日でした。ポケットカレンダーをまだ新年のものにかへてゐなかつたために忘れてゐて、昨夜になつて突然氣がついたのでした。 

それなのに、今日からはじまる銀座松屋の古書展は覺えてゐて、行かうか行くまいか迷つてゐたのでありました。が、病院へ行くといふ口實ができましたので、迷ひがすつ飛んでしまひました!

 

「第34回 銀座古書の市」は、松屋銀座八階イベントスクエアで開催です。それほど廣いスペースではないのですが、毎回和本のいいのが出るんです。それをめざして出かけましたら、入口のところで、五十嵐書店のご主人とお會ひし、「どうぞ、たくさん買つていつてくださいよ」と、いつものやうににこにこと言はれてしまひました。でもね、みな高價で高價で、ぼくの出る幕ではありません。

 

ところが、犬もテーブルから落ちたパン屑は食べさせてもらへるではないか、といふ譬へではありませんが、探せばあるものです。『神皇正統記』 は他のお店のでしたが、いち早くゲットしました。歴史とくづし字の勉強のためです。それからです。三〇〇圓の値札に引かれて手にとつたのは、戀川春町作(註一)の 『三升增鱗祖』。中と下だけでしたけれど、黄表紙本のやうです。それと、こちらのはうは五〇〇圓でしたが、『三時業落草』(註二)。佛敎の本ですね。「三時業」なんてはじめて聞きました。これらは五十嵐さんの棚でしたので、ご主人に見せましたら、「ほ~」と唸つてゐました。

 

お晝は、同じ階の銀座アスターで焼きそばをいただき、まだ早かつたのですが、病院に向かひました。 

今日は、ペースメーカー外來で、九か月ぶりの診察でした。心電圖とエコー檢査に時間がかかるので、病院には一時半に入り、檢査を受けて診察を待ちました。ところが、豫定の三時半を過ぎても、待てど暮らせど呼ばれません。結局終はつたのが五時半。まあ、おかげで、大塚ひかりさんの 『女系図でみる驚きの日本史』 をほとんど讀んでしまひました。面白い、といふよりは、今までの歴史家が、從來の學説に異を唱へるのが恐いからか、黙つてゐたことを正直に述べたもので、當然その通りですね、とぼくも思ひました。

 

で、檢査と診察の結果ですが、心臟の状態は横ばいでした。惡くはなつてゐないと聞かされて、まづは安心。横ばいなら上々でせう。いつから落ちていくか、それまでは横ばいを維持するためによく歩き、よく讀んで、よく考へて、世の中を斜交ひから眺めて行こうと思ひました。 

さう、今日は、阪神淡路大震災の日でしたが、それよりも以前、一九七七年のこの日はぼくが心臟の手術を受けて、三日目によみがへつた記念日なのでもありました。 

 

註一・・恋川春町(こいかわはるまち) 江戸時代中期の戯作者、狂歌作者。本名、倉橋格。通称、寿平。狂名、酒上不埒 (さけのうえのふらち) 。駿河小島藩用人。安永4 (1775) 年自作自画の『金々先生栄花夢』を出し、従来の青本と一線を画す成人向きの諧謔と風刺によって、黄表紙の祖となった。その後黄表紙を多数著わし、鋭い「うがち」をもって前期黄表紙界を友人の朋誠堂喜三二とともにリードした。一方、天明狂歌壇においても重きをなし、大屋裏住らの本町連に連なっている。寛政1 (89) 年、黄表紙『鸚鵡返文武二道 (おうむがえしぶんぶのふたみち) 』が寛政の改革を風刺したとして当局から糾弾され、同年死去。主家に累が及ぶのを恐れて自殺したとも考えられている。ほかに黄表紙『高慢斎行脚日記』 (76)、『三升増鱗祖 (みますますうろこのはじめ)(77) など。 

 

註二・・『三時業落草』 小子象林(北村道隣) 和綴 12x16cm2+本文14+因果経和讃2 

善悪の報に三時あり、ひとつには順現報受、ふたつには順次報受、みっつには順後次受、これを三時という、仏祖の道を修習するには、その最初よりこの三時の業報の理をならいあきらむるなり、しかあらざれば多く錯(あやま)りて邪見に堕つるなり、ただ邪見に  堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。 

当に知るべし今生の我が身二つ無し、三つ無し、徒に邪見に堕ちて虚しく  悪業を感得せん、惜しからざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。」(道元禅師 『正法眼蔵』 84三時業より抜粋)

 

今日の寫眞・・朝刊切り抜き、と、「銀座古書の市」會場。買ふことのできた和本。