正月十一日(木)癸卯(舊十一月廿五日 晴

 

今日の讀書・・昨夜から、途中まで讀んでゐた 『十帖源氏』(古典文庫) の〈帚木〉を、あらためて最初から讀みはじめました。すでに、明後日に迫つたさくらアカデミーの講義の復習と豫習に入つたわけでした。 

ところが、丁寧に讀み過ぎたのか、講義でもすでに讀んだところなのに、時間がかかりました。それでも十四頁、〈雨夜の品定め〉のうち、「左馬頭の体験談─指喰いの女」まで讀むことができました。 

 

昨日は、いろいろな連想が働いて、長州だけが日本をだめにした元凶のやうなことを書きましたが、實は問題はそれだけではなく、いやもつと深刻であることをあらためて敎へられました。 

それは、森毅著『ひとりで渡ればあぶなくない』(ちくま文庫)によつてです。たまには本棚を見渡すことを課してゐるのですが、そのときふと目についたのがこの本でした。その中の、「非国民の思想のために」といふ章のところです。ちよいと長いのですが寫しておきます。 

 

「いますでに、ファシズムの時代になっているのか、いますでに、戦争への道に入りこんでいるのか、ぼくにはさだかではない。 

だが、そんないま、戦争を語り、ファシズムを語ることについて、なんとも心もとない気がしているのだ。 

たしかに戦後、ファシズムは悪として語られてきた。ファシストは悪人だった。そこがどうも、心もとないのだ。 

ぼくの子どものころ、ヒトラーの少年たちが現れた。彼らは、澄んだ瞳の、りりしい少年たちだった。ファシストは、澄んだ瞳で現れる。 

ぼくのまわりの愛国少年たちだって、よい子のほうが多かった。少しずっこけた悪い子のほうは、非国民少年だった。ちよっとませた、おとなを信じない、子どもらしくなくひねくれたいやな子、なんてぼくの子どもの頃みたいだが、そんな悪い子だけが愛国少年にならずにすんだ。純真な魂はファシストたちのものだった。 

そうした純真な魂をだました、おとなのほうが本物のファシストかというと、隣組の防空演習などに熱中するのは、たいていが気のいい善人たちだ。南京で虐殺をやったのも、こうした善人たちだろう。 

こうした場合、ひとにぎりの資本家だの、戦争犯罪人を持ちだすのは、人間の善人信仰にはつごうがよい。それは、敵をできるだけ遠くに、なるべく少数に、独占資本とかアメリカ帝国主義者においたほうが、身のまわりが安全になるという、生活の知恵かもしれない。悪なんて、ルシフェル(堕天使たちの頭領であるサタンのこと)だけにかぶせておけば、人はみな平和である」。

 

あるいは

 

「八月十五日には、ぼくは十七歳だつたものだが、そのあとの、お国にだまされたとの騒ぎは、なんとも気に入らない。『人民をだまさない政府』なんて、論理的に無意味なものを、人はどうして求めるのだろう。人民というものは、政府にだまされないようにするべきだ。だまされたら、人民が悪い」。 

「人は、状況のもたらす感動に、背を向けることで非国民になる。」

 

これらの言葉を忘れないでおこうと思ひました。 

これは戰後三十五年たつた時點で書かれた文章です。いまからですと、同じ三十五年前になります。これをどう考へたらよいのか、この書が書かれたあたりを頂點として、ますますファシスト社會が形成されてきてゐるとみるべきなのでせう。みな、作られたといふか、仕掛けられた感動に無防備すぎます。 

 

今日の寫眞・・朝刊の切り抜きと、猫パンチが飛び交ふモモタとココ。