正月四日(木)丙申(舊十一月十八日 晴

 

今日の讀書・・三日坊主ではありませんが、散歩を休みまして、菅原文太さんと半藤一利さんの對談 『仁義なき幕末維新』(文春文庫) を讀みました。讀んでゐて胸が熱く燃えてきました。まつたく同感。よくぞ言つてくれたとの思ひに叫びたくなりました。八六四圓なんて安いものだと思ひました。 

さう、明治維新一五〇年だなんてお祭り騒ぎをしてゐる方々に讀ませたい。そして、「この本を讀んで目を覺まそう!」 さう叫びたい衝動にかられました。何しろ、「本書は語りおろし作品です」し、菅原文太さんがこんなこと思つてゐたのと、はじめて知る人もをられるに違ひありません。 

 

菅原 賴まれて鹿児島に行ったことがあるんです。・・・西鄕さんって神格化されている。 

半藤 でも、殘念ながらもう行けませんよ、二人とも。 

菅原 この賊軍子孫対談でおおむね語り尽くしたんじゃないかな。賊軍子孫の遺言対談になったかな。 

 

と最後の頁に書いてあるやうに、お二人は西鄕さんを神格化などしてゐません。もう、鹿児島へは行けないとまで言つてゐる、そのわけはなんでせうか。是非これは、大河ドラマなどよりも先に讀んでおくべきものでせう。 

いや、西鄕さんのことだけではありません。ぼくたちが學んできた明治以後の歴史は、要するに、「明治政府の歴史觀、いわゆる薩長史觀」で書かれてきた歴史であり、それがどんなひどいものであつたかがお二人の對談によつて浮き彫りにされます。

 

その一つ、《中仙道を歩く》 で詳しく觸れたことですが(『 歴史紀行 三十四 中仙道を歩く(十九) 下諏訪宿~贄川宿(前編) 』)、下諏訪の町に「魁塚」(さきがけづか)といふものがあります。これをめぐつての對談、とくに文太さんのご意見には鋭いものがあります。細かくは省きますが、東國出身者の中にも尊皇攘夷を掲げる人々はたくさんゐたわけですけれど、岩倉具視ら薩長は、後々維新は薩長が實現したのだと言ふことを主張するために、倒幕に協力した東國人を口封じのために抹殺してゐるんです。その犠牲になつたのが相樂総三であり、その處刑場に、下諏訪の有志の方々によつて建てられたのが「魁塚」なのであります。この口封じは、まるで、ノモンハン事件でロシア側に捕らはれた日本人捕虜を殺すようにロシアに申し入れた軍部と同じ構圖です! これは、『歴史紀行 十八 我が家の古文書發見!』 でも書きました。 

文太さんは、「岩倉という人はクーデターを策謀した維新十傑のひとりだけど、俺はこういうタイプのワルが一番嫌いだね。維新政府の正当性すら疑いたくなる」。と、このやうにおつしやつてゐます。 

いや、明治政府の正當性など、この對談を讀めばすつ飛んでしまひます。まだまだ菅原文太さん、いいこと言つてゐます。 

 

菅原 俺に言わせると、あの時期は「革命」でも「維新」でもなく、「陰謀」にすぎないんですね。西鄕、大久保、岩倉、それに桂小五郎も加わった大陰謀だと思う。 

半藤 陰謀と策略ですね。それと暴力です。 

菅原 上野の銅像に象徴される西鄕さんのイメージは、われわれ日本人に「明治維新というものは素晴らしい革命だった」という、ある種の幻想を植えつけてしまったね。 

半藤 と同時に、幕末から明治にかけての大革命は、「素晴しい人格によってリードされた正義の戦い」であったと。実際は正義でも何でもなく、薩長の革命史観にもとづく正義でしかない。 

菅原 ですから、「尊皇」なんてのは名目にすぎない。幕府をひっくり返して天下を取るための戦略にすぎないんですね。 

 

上野の銅像は、西鄕さんが與り知らぬところで建てられたものですけれど、このやうに利用されたことは事實でせう。重く受けとめなければなりません。 

それに、幕府をひつくり返したのはいいとして、「国民も、はあ、薩長のおかげでこんな暮らしができるようになったんだ」、と思はせ、「もしも戦争で死ぬようなことがあったら国家が靖国に丁寧に祀ってあげますよ」といって、日本人に有無を言わさずついてこさせた。(中略)「こうして、薩長は、奉公社会を作ったんですね」。 

半藤 『歴代陸軍大将全覽』を見ていただくと一目で分かるんですけれど、陸軍はずらーっと長州ばかり。 

そのおかげで、日淸、日露、ノモンハン、さらに太平洋戰爭を通じて最も自國の兵士を殺したのはこの長州陸軍校・軍人だつたことをぼくたちは忘れてはならないと思ふ。 

そんな長州を誇るアベ首相を早く引き下ろさなければ、またまた、お國のために喜んで死ねる若者が作りあげられていくことでせう。ぼくは、それを危惧しながら、暗い氣持ちで讀み終はりました。 

 

お終ひに、半藤さんの一言。 

「とにかく河井(継之助)が信濃川沿いの道を駕篭にゆられて進んで、小千谷に設けられた明治政府の本陣に行って、なんとか戦にならないようにと談判した。それなのに、薩長のやつら、無理やり喧嘩をしかけて、そうして北越戦争に」長岡藩は敗れた。「親父は、『あの明治政府というのは泥棒だ、暴力団と同じなんだ』と散々言ってました。これで私は反薩長の歴史観をもつようになりましてね」。 

 

さうです、世の中には戰爭や喧嘩が好きで仕方がない人間がゐるのです。それは否定できません。問題は、そんなアベのやうな人間に國の進路をまかせてはならないといふことなんですね。もう一度、「目を覺まそう!」 と言ひたい。 

「明治維新一五〇年」が、壞憲や軍備増強に利用されないことを願ふばかりです。

 

今日の寫眞・・どんなに悔しかつただらう、誠實な志士たちの眠る「魁塚」。米軍戰鬪機に乘つて嬉々としてゐる、アベ首相! (2015/10/19朝刊)