十二月廿日(水)辛巳(舊十一月三日 晴

 

今日の讀書・・『源氏物語』〈賢木〉の卷を繼讀。今日は、五頁しか讀めませんでした。 

案の定、太后の妹である朧月夜の君と密會し、それを衞兵に見みられてゐたのに氣がつかない源氏でした。迂闊です。たうとう火がついてしまひ、煙が立ちのぼるのも時間の問題でせう。

 

ぼくの讀書の仕方は、振り返つてみると、あれこれ併讀してきたことでせうか。それも柱となる讀書と並行する傾向の書物の場合もありますが、大體は違つた分野のものだつたやうな氣がします。例へば、今現在、『源氏物語』 を讀んでゐますが、その關係の論文や輕い小説も面白いのですが、池波正太郎や藤沢周平、それに柴田錬三郎のものを讀んでゐます。それぞれ短編集ですから、氣晴らしに讀むのにかなつてゐます。 

とくに、『源氏物語』 のやうな單調な物語を讀んでゐて、シバレンなどに目を移しますと、アドレナリンが湧き出てきて、これぞ生きてゐると言ふ氣になります。時には、アドレナリンが枯渇してゐないかどうかを確かめなくては、それこそ心も體も萎びてしまひます。 

 

今日、友人から干柿が屆きました。これは、ぼくの大々好物! 伊豆にゐる頃には、庭の柿の實二五〇個を干柿にしていただきました。干しておくと、屋根から猿が奪つていきましたが、殺生のきらいなぼくは大目に見てあげました。 

先日はまた、岡山の友人から生牡蠣が送られてきたりで、ぼくは友人に恵まれてゐると思ひます。『徒然草』にも、「よき友三つあり。一には物くるゝ友、二にはくすし、三には智惠ある友」とあるやうに(第百十七段)、その第一にあげられてますものね。でも、このやうな貴重な友は昨日今日できるものではありません。大學時代からの深い交はりがあつてこそであります。ぼくの人生も、かふ見ると捨てたものではないなあと、感謝したくなります。 

 

今日の御詠歌・・十八番の解説、十八番、十九番、十九番の解説、(二十番の解説は宿題)

 


 

*昨日の宿題、十八番の解説 

「第十八ばん 山しろの國おたぎ郡 しうんざん頂法寺六かくだう 

本尊如意輪救世の大士 御長一寸八分 開き(開基)聖徳太子の守本尊にして弘法大師一尺二寸のぞうを刻してむねの中に納む」

 

*第十八番札所 

「十八ばん 山しろのくに六かくだう 

わがおもふ こころのうちは むつのかど ただまろかれと いのるなりけり」 

(わが思ふ 心のうちは 六の角 ただ円かれと 祈るなりけり)

 

*第十九番札所 

「十九ばん 山しろのくにかうだう(革堂) 

はなをみて いまはのぞみも かうだうの にはのちぐさも さかりなるらん」 

(花を見て 今は望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん)

 

*十九番の解説 

 「第十九ばん 山しろの國おたぎ郡一じやう竹や町 れいゆう山(霊山)行がん寺(行願寺)こうどう(革堂 

本尊千手觀世音菩薩 御長六尺 開山ぎやういん(行円?)上人の御作なり」

 

この行円さん、聞いたことがあると思つたら、佛門に入る前は狩猟を業としてゐたさうで、殺生の非を悟つて佛門に入つたといふ人です。行円は鹿の皮を常に身につけてゐたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂と呼ばれました。行円の生没年は未詳ですが、比叡山の横川出身の聖と推定されてゐます。 

藤原道長の三男で、明子を母とする藤原顕信が、寛弘九年(一〇一二年)、世を儚み行願寺(革堂)の行円の許を訪ね、その教へに感銘を受けてそのまま剃髪して出家したさうです。 

『日本紀略』 にも、寛弘六年(一〇一〇年) 「三月廿一日 今日、皮聖人、行願寺ニ於テ法華經一千部、圖繪三千餘躰佛像ヲ供養ス」とあり、つづけて、「件聖人、首ニ佛像ヲ戴キ、身ニ皮裘(かわごろも)ヲ著ケル。元鎭西人也。生年六十餘」といふ人物でした。 

 

今日の寫眞・・山梨市出身の友人からいただいた干柿。と、ぼくの愛讀書、『徒然草』。岩波文庫で學生時代から讀んできましたが、最近、寫本の複製本が手に入つたので、これからはくづし字で挑戰です!