十二月十日(日)辛未(舊十月廿三日・下弦 晴

 

今日の讀書・・今日は一日、「西國巡禮」について調べてみました。古本市で出會つたのが運の盡きです、が、じつは、昨年の二月に、『觀世音御詠歌』 といふ、これは明治十三年に出されたもので、印刷ではあるんでせうが、間違ひなく同じ内容の御詠歌が、和本の山の中から見つかつたのです。このやうに、同じものを買つてしまふのがぼくの惡いくせで、でも、くらべてみると、それぞれ違ひもあつて面白いので、二つとも添付していこうと思ひます。昨日は、和本だなんて言ひましたが、これらは和綴じ本と言ふべきでせうね。いやメモと言つてもいいでせう。 

第一の違ひは、明治版には、御詠歌に先立て、解説が書かれてゐることです。それが漢字假名交りの文ですから、さらに古文書解讀リテラシーが要求されます。あまり自信がありませんが、せつかくですから取り組んでいきたいと思ひます。

 

それと、書庫をのぞいて、白洲正子さんの 『西国巡礼』 を探したら、そのそばに、杉本苑子さんの 『西国巡礼記』 が目にとまり、極め付きは、西国札所会編・佐和隆研著といふ 『西国巡礼 三十三所観音めぐり』 が發見されました。それぞれの 「はじめに」 や 「西国巡礼について」 を讀んでみて、まあ勉強になりました。 

「西國巡禮」については、すでに知つてをられる方も多いと思ひますので、三册の中から、二、三引用するにとどめます。 

 

「西国巡礼が一般的に行なわれるようになったのは室町時代からであるとされているが、その起源については奈良時代にまで遡る」 

「西国札所巡礼の中興の祖とされているのは花山法皇である。そのために花山法皇に由緒のある元慶寺と花山院が番外に加えられている」 

これなんて、ぼくは初耳でしたね。花山法皇については、先日觸れましたから、まだ記憶は新鮮です。また・・・。

 

「西国巡礼というのは、観音信仰にはじまるが、観音がさまざまの形に変身して、人間を救うという考えのもとに、かりに三十三の霊場が定められた」

 

「おへんろさんは四国八十八ヵ所の名称で、西国では単に 『巡礼』 と呼ぶ。西国は、観音信仰だが、歴史は四国より古い。本尊はいうまでもなく、さまざまの形の観音像で、特に千手観音が多いのは、あまねき誓いと希望を現わすからであろう。・・・千変万化を極める応身も、すべては一つに還元される。観音様は、だからどんな身に変じようと、民衆の中に入って行こうと、多神教の神ではないのである」 

これにも驚きました。が、さう言へば、『歴史紀行 十三 中仙道を歩く(三) 蕨 宿~大宮宿』 の中で、「お地藏さん」について次のやうに書きました。 

 

「そもそも、佛敎は、さまざまなホトケとして、その利益を説く經典とともに傳はりましたが、それぞれのホトケの個性といふか利益の特徴は、最初は、理解されずに拜まれてゐました。それが、庶民の佛敎として信じられてゆくのは、實は、觀音菩薩信仰と地藏菩薩信仰を通してだつたのです。 

その中でも、觀音信仰が、現世利益を説きましたので、地藏信仰のひろまりに先立つて、庶民の願ひにこたへました。」

 

と、まあ知つたか振りのことをを書きましたが、たしかに鎭護國家の佛敎にたいして、庶民の救ひを擔つたのが、これら觀音信仰と地藏信仰だつたんですね。その觀音信仰のお寺めぐりですから、ぼくも御詠歌を勉強しながら庶民の信仰の旅をたどつていきたいと思ひます。 

 

そこで、今日は、『西國三十三所並善光寺御詠歌』 の「見開きの二ばんと三ばん」を讀むはづでしたが、『觀世音御詠歌』 が見つかつたので、『觀世音御詠歌』 による、一ばん札所の解説を讀みませう。二ばん札所の解説は明日讀みますが、豫習してみてください。 

また、表紙から再度添付いたします。 

 

『觀世音御詠歌』 「西國第一ばん紀伊國東むろ郡なちさん靑がんど寺花山院  本尊閻浮だんごん御長八寸如意輪觀世音菩薩ハ開山裸形上人たきつぼより感得の尊像也」

 

御詠歌のはうは、昨日の「よみ」を參照してください。第二ばんの解説は明日のお樂しみ。難しさうです! 

 

今日の寫眞・・『觀世音御詠歌』 と 『西國三十三所並善光寺御詠歌』 の表紙以下。それと、「西國巡禮」についての參考書三册。