第七報 つづき・・・さらに、三十三間堂の前の道をへだてたところにある、後白河天皇陵を訪ねました。いつも思ふことは、陵墓を探索してゐて、誰一人にも會はないことですね。まあ、巨大ではありますが、みなだいたい同じ形のお墓ですから、ただ見て歩く人には何の興味もわかないのは当然なのかも知れません。 

でも、なまじ、歴史を探索してゐますと、先祖代々のお墓の前で先祖に思ひをはせるやうに、学んだ知識に応じてでせうが、走馬灯のやうにその人物の影が踊りだすのでありますね。堪へられません。 

 

さて、タクシーでワープし、午後は、吉田神社からスタートしました。 

吉田山を西側から上り、山の南側をぐるりと歩いて、一条天皇の子、後一条天皇陵に出ました。お隣りには陽成天皇陵、それから眞如堂を経て白川通りに出ました。 

陽成天皇の時代のお勉強は過ぎてしまつたのですが、陵墓探索はのがしてしまつたのでついでに寄りました。後一条天皇の父は一条天皇、母は道長の娘彰子さん。この天皇誕生によつて、道長は外祖父となり、位人臣を極めることができたのでありました。 

ところで、お昼を食べそこねたので困つてゐたら、哲学の道沿日に、その名も哲学カフェを発見。軽くケーキとコーヒーをいただいているところです。 

 

添付寫眞・・後白河天皇陵。吉田神社。後一條天皇陵。眞如堂の三重塔。まだ紅葉してゐないのが殘念!

 



 

第八報・・・さて、今日最後の報告をさせていただきます。 

哲学カフェを出ましてから、冷泉天皇陵を訪ね、タクシーを駆使いたしまして、鴨川にかかる丸太町橋を越えたところで下車。路地をたどつて、頼山陽の書斎跡「山紫水明處」を訪ねました(註一)。『日本外史』 が書かれたところですからね、念願の場所だつたのですが、途中にある玄関といふか門のところで写真を撮つてゐたら、茶会かなにかやつてゐたんでせう、お上品なご婦人が出てこられて厳しく叱られてしまひました! 予約なしに入つては困りますと、かうですよ。 

写真はばつちり撮りましたから、早々に退去し、めざす廬山寺に向かひました。ところが、その途中で、「犬も歩けば棒に当たる」としか言ひやうがありませんが、これまた道長ゆかりの法成寺跡に出会したのであります(註二)。 

 

註一・・山紫水明處は、江戸末期の学者・頼山陽が晩年住んでいた書斎で、入母屋造・わら葺・平屋建・内部は四畳半の書室と二畳の待室と水屋がある。閑素なものであるが、四方を開放して防暑防寒の細かい工夫が凝らしてある。鴨川の清流を隔てて、東山三十六峰を一眸のうちに収めることができ、山紫水明處の名にそむかない。「日本外史」「日本政記」「通議」の三大著作をここで完成した。 

 

註二・・法成寺 藤原道長が造営した摂関家全盛期を象徴する大寺。〈御堂(みどう)〉と呼ばれ、道長の〈御堂関白〉という異称も生まれた。 

藤原道長は、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」(『小右記』)の歌でも知られるように、この世の栄華を極めたが、晩年浄土信仰に傾倒し、病に苦しんだことから、寛仁3年(1019年)に出家し、土御門殿に隣接するこの地に、九体阿弥陀堂の建立を発願、造営を開始。金色の丈六阿弥陀像9体を安置した無量寿院(阿弥陀堂)を中心に、金堂、五大堂、十斎堂、講堂、薬師堂など諸堂の造営は、諸国の受領が争って分担し、その壮麗さは地上の極楽といわれて、《栄華物語》や《大鏡》に詳しい。万寿4年(1027)、道長は阿弥陀堂内で、9体の阿弥陀仏の手に五色の糸を結び、《往生要集》の臨終行儀そのままに、西向き北枕に臥し、その糸を手にして念仏の声のなかで最期を迎えたという。 

 

添付寫眞・・山紫水明處。法成寺跡。

 


 

廬山寺は、紫式部邸宅跡。すてきな寺といふかお庭でした。 

そもそも、廬山寺なんていふお寺を知りませんでしたし、ましてそこが紫式部の邸宅跡だなんてことは知りもしませんでした。出発前に調べたことを再び記しておきます。 

 

廬山寺・紫式部邸宅跡  京都市上京区にある天台系の単立仏教寺院。圓浄宗の本山。日本人で唯一人、「世界の五大偉人」に選出され、フランスのユネスコ本部に登録された世界最古の偉人並文豪紫式部が生まれ育った邸宅跡として知られる。 

紫式部は、「平安京東郊の中河の地」、すなわち現在の廬山寺の境内(全域)に住んでおりました。それは紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔が建てた邸宅であり、式部はこの邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、『源氏物語』、『紫式部日記』、『紫式部集』などを、ほとんどこの地で執筆いたしました。そして、長元四年(1031年)、五十九歳ほどで死去したといわれております。 

昭和四十年十一月、境内に紫式部邸宅跡を記念する顕彰碑が建てられるとともに源氏庭が整備されました。源氏庭は平安朝の庭園の「感」を表現したものであり、白砂と苔の庭です。源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことであり、紫式部に因み、紫の桔梗が6月末から9月初め頃まで静かに花開きます。

 

尚、源氏庭入口に建つ歌碑には、紫式部と娘の賢子(大弐三位)の歌が刻まれてをりました。 

 

紫式部 〈めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月影〉 

大弐三位 〈有馬山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする〉 

 

添付寫眞・・廬山寺門前と歌碑と源氏庭。

 


 

帰路、京都御苑を横切り、地下鉄丸太町駅まで歩きましたが、もちろん建礼門の前にたたずんで、平安京の昔を偲びましたのです。 

御苑内には、道長ゆかりの土御門第跡(註一)、それに枇杷殿跡(註二)までありまして、今回の旅は、まるで 「道長紀行」 と題したくなるやうであります。 

ちなみに、現在の京都御苑のなかに、土御門第跡や枇杷殿跡があるのは、ここは平安時代には内裏があつた場所ではないからであります。一言。 

さて、地下鉄で四条駅下車。四条大宮のホテルまで四条通を歩いて帰つてきました。夕食は、えへん、ステーキを食べてきました。歩数は16500歩でしたがいたつて元気。心臓にはやはり歩くのがいいのでせうか? では、おやすみなさい。 

 

註一・・土御門第 藤原道長の邸宅の一つ。この邸はもと土御門左大臣源雅信の邸であり、雅信の女倫子と道長が結婚したところから倫子の住む土御門殿に道長が同居し、道長の地位、権勢の上昇とともにその本邸として重要な位置を占めるようになった。道長の女彰子(一条天皇后,上東門院)の里御所に土御門殿が用いられ、彰子所生の後一条、後朱雀両天皇がこの邸で誕生している。 

 

註二・・枇杷殿 枇杷殿は藤原長良より息子基経へと伝えられ、 平安中期には藤原道長の所有する邸宅となりました。一条、三条天皇らの里内裏や、道長の娘妍子の住まいとしても利用された邸宅です。 

 

添付寫眞・・土御門第跡。建礼門。枇杷殿。それに御苑のネコ。