十月廿四日(火)甲申(舊九月五日 晴のち曇天 

 

(口上・・以下、廿七日までは、「天理・京都紀行」と題する旅に出てゐましたので、通常とは異なり、旅の途中、携帶電話のメールで友人に送つた報告をそのまま載せて、日記の代りといたします。二〇一一年十二月の「歴史紀行六」で味をしめた方法を取りました。尚、漢字はそのまま、假名遣ひだけ、歴史的假名遣ひに直しました。また、訂正・加筆を多少おこなひました。十月二十八日記) 

 

第一報 

みなさま、おはやうございます。 

政治は庶民にとつて軽いはうがいいに決まつてゐますが、なんだかますます重くのしかかつてきさうでありまして、せめて心を軽くするために旅に出てまゐりました。 

題して、「天理・京都紀行」であります。まづは国宝を見に、天理図書館と京都国立博物館をめざしますが、できれば天皇陵探訪もしたいし、まあお楽しみに。 

まもなく京都駅です。 

 

第二報 

京都駅からは近鉄線の急行天理行に乗つて、天理図書館の前にやつてまゐりました。はじめてなのはもちろん、古典籍を愛するものにとつての聖地であります。緊張といふか歓喜といふか、動揺を隠せません! 

ところが、参考館の「至宝展」の前に立つてみたら、お休み!? 火曜日は休館日なのでした。迂闊なことです。それで、写真で見たことのある図書館に入り、開催中の「漱石展」を見てまゐりました。書簡を読んで改めて気づいたのは、すべて変態仮名なんです! それも源氏などの古典より難しいのには驚きました。 

それで計画を変更せざるを得ません。「至宝展」は最終日にまはして、壮大な天理教本部にお寄りし、昔懐かしい商店街を経て、今、JR天理駅で一休み。

 

思へば、このやうに実況中継といふか報告をするのは、2011年12月の「歴史紀行6」以来であります。その際は、ことこまかく書きましたが、今回は書き惜しみして、お忙しいみなさんのことをご配慮して、ほんのさはりだけにしてをきます。

 

添付寫眞・・天理圖書館と壮大なる天理敎本部の門

 


 

 第三報 

続いてやつてきましたのは、六地蔵駅です。天理駅からJR奈良線で向かひました。計画では木幡駅から回りたかつたのですが、奈良驛からのみやこ路快速だと、木幡駅は停車せず。 

それでどこを訪ねるのかといひますと、藤原一族の墓地であります。このあたり一帯は「宇治陵」(註)といふのですが、あちこちに陵墓が散在し、しかもどこが誰の墓地かわからないときてゐます! 

一条天皇の中宮彰子さんの墓地もあるはづなんですが、それがわからない! まあ、時平と道長がどうにかわかつてゐますので、探し歩いてみます。それにしてもどんよりと曇つてきて、今にも降りさうです。 

 

註・・宇治陵 宇治陵は、京都府宇治市にある古墳群と、藤原氏とその関係者の陵墓群である。地蔵山および御蔵山に散在する古墳を総称したもので、大小320もの陵墓群である。

 

添付寫眞・・宇治陵あたりの地圖。

 

 第四報 

巡り歩いてきました。なだらかな丘一面にひしめきあつてゐる住宅地の中をジグザグと、下校途中の子どもに道を訪ね訪ねでありました。 

はじめは、藤原時平の(だと考へられる)墓、つづいて道長が建てた浄妙寺跡(註一)。さらに栄華を極めた藤原道長の墓地(?)といはれてゐる墓。新興住宅地の中にありました。ですが、近隣の方々は知るよしなし。ただ高台のいい場所です。 

そして、藤原一族より出た皇族関係者をひとまとめにしたのが第1号陵、総遙拝所として、宮内庁によつて守られてをりました(註二)。 

 

註一・・浄妙寺 京都府宇治市木幡(こばた)にあった寺。藤原道長は、寛弘2年(1005)に浄妙寺を建立し、一族の菩提を弔いました。寺地の選定には陰陽師の安倍晴明などがあたったとされています。平安時代には平等院とともに摂関家の重要寺院として位置づけられていましたが、室町時代の寛正3(1462)年に、一揆により放火されて焼失し廃絶。その位置はわからなくなっていましたが、昭和42年木幡小学校建設にともなう発掘調査により、三昧堂跡と推定されました。 

 

註二・・宇治陵の中から、明治10年に宮内庁によって調査された173墓の「陵墓被葬者一覧」。第1号陵、総遙拝所の制札に並ぶ人々です。 

〔宇多天皇中宮温子宇治陵、 醍醐天皇皇后穏子宇治陵、 村上天皇皇后安子宇治陵、 円融天皇皇后遵子宇治陵、 円融天皇皇后子宇治陵、 花山天皇御母贈皇太后懐子宇治陵、 一条天皇御母尊称皇太后詮子宇治陵、 一条天皇皇后彰子宇治陵、 三条天皇御母贈皇太后超子宇治陵、 三条天皇皇后子宇治陵、 三条天皇皇后妍子宇治陵、 後一条天皇皇后威子宇治陵、 後冷泉天皇御母贈皇太后嬉子宇治陵、 後冷泉天皇皇后寛子宇治陵、 後冷泉天皇皇后歓子宇治陵、 白河天皇御母贈皇太后茂子宇治陵、 鳥羽天皇御母贈皇太后苡子宇治陵、 宇多天皇皇子敦実親王墓、 冷泉天皇皇子敦道親王墓、 准后藤原生子墓〕

 

そうそうたるメンバーです! たしかに穏子さんも、安子さんの名もありますし、一条天皇の中宮彰子さんの名も当然記されてゐました。ただ、中宮定子さんの名が無いのはどうしたことでせうか。天皇一人に一人の皇后しか記さないやうでもありませんし、天皇の御母として記されてゐる詮子さんのやうな方もをられるし?

 

ところで、今日に予定してゐた中宮定子さんのお墓と紫式部の邸宅跡は後日にし、祗園四条駅で阪急京都線に乗り換へました。四条烏丸駅の裏の「かつくら」でとんかつをいただくためです。もちろんグラスビールとともに、美味しいひれかつをいただいて、無事ホテルにチェックインすることができました。一日通して15300歩でした。では、おやすみなさい。

 

添付寫眞・・道長の墓と道をへだてた33號墓。「藤原氏塋域(えいいき)」の碑。  宇治陵1號(総遙拝所)。制札には173墓の名が記されてゐます。 



 

 第四報 つづき 

実は、「かつくら」に入る前に、橿原オークホテルに電話したら、26日の宿泊がとれたのです。それでは帰りの新幹線の指定券も変へねばならず、食後すぐに京都駅に行って変更していただきました。これで安心。妻にも連絡して27日に帰ることを伝へました。 

ホテルでは、湯につかり、疲れを癒やしつつ、さう、『餓鬼・地獄・病草子』を読み進むうちに寝入ることができました。