十月廿一日(土)辛巳(舊九月二日 雨

 

今日の讀書・・朝食後、パソコンを起こして 〈乗換案内・時刻表〉 を見たら、東京驛から天理驛まで、京都驛經由で無理なく行けることがわかりました。八時に發つと一一時半には着いてしまふのです。 

そこで、まづ、京都のホテル、おなじみのサンセットインに連絡したところ、この電話は現在使はれてをりませんなんて、さい先よくない出だしでしたが、宿泊したことのあるもうひとつの東横インのはうだと、二十五日~二十六日はだめでしたが、二十四日~二十五日なら連泊できると言ふので即決し、豫約いたしました。

 

さあ、賽は投げられました。次に新幹線の指定席がとれるかどうかです。それで、少し早く家を出て、日暮里驛のみどりの窓口をたずねたところ、うれしいことに誰一人をりません。即座に豫定した時間の列車の指定座席をとることができました。念のため歸りの指定もとつておきました。 

使ひ込んだ京都と奈良の地圖を出してながめてみると、天理圖書館のそばには石上神社があります。また、京都へ向かふ途中に宇治平等院があります。まだ両者とも訪ねたことがありません。宇治には、また、源氏ミュージアムなるものができてゐるので話のタネに訪ねてみようかしら。 

二日目は、何と言つても、京都國立博物館の國寶展です。一生一度の出會ひが待つてゐるかも知れません。

 

それと、ついでに、といふより、歴史紀行の繼續として、天皇陵を訪ねようかと思ひます。交通不便な淳仁と淳和と清和以外は、神武天皇からほぼ順調に訪ねてきてゐるので、もれた陽成、宇多をはじめ、村上、冷泉、円融、花山、一條、三條、後一條、後朱雀、後冷泉、後三條、そして白河天皇にいたりますが、どこまで訪ねられるか、せめて 『源氏物語』 の背景でもある一條天皇までは行つてみたい。けれど、二泊三日では無理かも、もう一日のばすことも考へてみませう。 

 

さて、これ以上のお樂しみはあとにして、今日は土曜日、學習院さくらアカデミーの日です。日暮里驛から目白驛に急ぎ、學食にと思つたら、また閉まつてゐたのにはあきれてしまひました。なんでなのでせう。仕方なく、また上階のコンビニでおにぎりを求めて、それでお晝にしました。 

《源氏物語をよむ》、今日から〈帚木〉の卷がはじまりました。 

ですが、〈帚木〉に入る前に、「次週から、〈變體假名〉を學ばうかしら」、と先生がおつしやつてをられたやうに、全員に、「靑表紙本」の〈桐壷〉の第一頁をコピーしてきてくださり、その第一行目を一字一字文字を追つて説明してくださいました。 

 

まあ、ぼくは獨學でですが數年にわたつて學んできたので、よくわかりました。 

漢字は表意文字、かなは表音文字であること。かなは漢字(眞名)をくづしたもので、そのかなのもととなつた漢字を字母(じぼ)といふこと。 

かなは數多くの字母からできてゐて、同じ音の文字なのにたくさんの形があります。ここのところが覺えるのに苦勞するところです。「き」の場合、「幾」を字母とした形の「き」をはじめとして、「支」を字母としたもの、「起」、「木」、「喜」を字母としたものと、いくつもあり、一應すべてを知つておくことが必要で、先生は、出てきたくづし字は字母とともに覺えるようにしなさいと言はれました。 

ちなみに、たくさんの字母を持つたかなが、一音一字母に定められたのが明治三十三年(一九〇〇年)。以來、それ以外の字母、「き」の場合は「幾」以外の字母を持つかなを「變體假名」と呼ぶやうになり、悲しい差別の歴史がはじまつたのであります。変態ですからね。せめて「くづし字」と呼びたいです。 

ぼくの經驗では、「變體假名表」で字母とともに覺えたくづし字でも、文章のなかでは、その書かれた時代や筆者によつて異なつた癖のある形の文字になるので、多種多様な文章に觸れて、そのバリエーションを學ぶことが大切だと思ひます。 

 

それで、〈帚木〉ですが、「靑表紙本」で六頁まで讀むことができました。源氏とともに、中將(後の頭の中將)が登場し、お互ひに忌憚のない會話がはづむ場面でした。方や左大臣家の婿、方や右大臣家の婿。しかも義理の兄弟でもあります。お互ひに妻とその實家を煙たく思つてゐるところなどが共通し、話も、ついついお互ひの女性關係に及ぶのでありました。 

 

歸路、今日は五反田の古書會館での古書展にまゐりました。この雨で人出は少ないであらうと訪ねたところ、閑古鳥が鳴くやうなさびしさ。のんびりと探索しましたら、あるところにはあるんですね、また、不思議な和本(覆刻本ですが)を見つけました。題して、『兼好今法師志道軒 徒然夢物語夜講釋』(註)。いやはや面白い本があつたものです。江戸時代のものを讀むためにもくづし字は必要です、ね、中野三敏先生? 

 

註・・深井志道軒(ふかいしどうけん) 1680?1765 江戸時代中期の講釈師。 

京都に生まれる。12歳で真言宗の寺院である知足院に入門。若くして大僧正隆光の侍僧となるが、隆光の没落により寺籍を外れ(陰間に関り追放されたとも)、一時は願人坊主にまで身を落とす。その後、霊全に辻講釈を学ぶ。享保初年ごろから弁舌による生計を立てる。浅草寺観音堂脇に葭簀張りの高床を設け、陰茎を型取った棒を手に、大仰な身振りでの辻講釈を行った。ネタは「源氏物語」、「徒然草」、軍書まで幅広く、破礼講釈、狂講などといわれて大いに人気を博した。宝暦年間には歌舞伎の大立者2代目市川團十郎と人気を二分するほどになった。僧侶から講釈師になったために、知識の幅が広く、厳粛にあるいはユーモラスに、時に痛烈に風刺を効かせたりと、その話術の巧みさで観客を捧腹絶倒させた。記録では、そのあまりの面白さに観客はその場から離れようとしなかったという。 

 

今日の寫眞・・講義の前、ご婦人から見せていただいた懐かしい二千円札。片面は源氏物語だつたんですね!  

それと、ちよいといかがはしい、『兼好今法師志道軒 徒然夢物語夜講釋』。