十月三日(火)癸亥(舊八月十四日 曇天

 

今日の讀書・・今日は通院日。綾瀨驛から千代田線、大手町驛乘り換へで慈惠醫大病院の最寄驛である御成門驛まで乘り繼いで行くのですが、いつも大手町驛構内の新刊本屋に立ち寄ります。ただどのやうな本が出てゐるのか確かめるための寄り道にしか過ぎません。 

なのに、今朝は、思はず、一冊の文庫本を手に取つてしまつたのであります。偶然にしてはあまりにも不思議な、いや、昨日の今日ですからね、必然的な出會ひと言ふべきでせう。

 

トーマス・マン+渡邊一夫著『五つの証言』(中公文庫)と言ふ文庫本です。新刊本は買ふまい、と常々思つてゐるのですが、そんな決意を破つて高價な本を購入してしまひました。定價800円プラス税金でした!

 

でもね、かういふ不思議な出會ひがあるから讀書はやめられませんし、なにかに導かれてゐる感じさへするんですね。思へば、ぼくの讀書は、このやうな出會ひの連續だつたやうな氣がします。かならずではありませんが、なんらかの必然性があつて讀み次いできたと思ふのです。それはそれは、幸運だつたと思ひます。が、また、それだけの苦勞と努力なくしては讀んでこれなかつた、とも思ひます。だいぶ自畫自賛のやうですが・・。 

 

それで、渡邊一夫先生の、それ自體「証言」でもある序文に引き續き、アンドレ・ジードの「証言」と、トーマスマンの「証言」を、病院の待合室で、そして神保町の喫茶店をはしごして、歸宅するまでに讀み上げてしまひました。 

難しい文章でした。久しぶりに哲學論文を讀んだ感じです。でも、昨日讀んだ渡邊一夫論文と同じく身につまされました。未來を豫言してゐるわけではありませんが、今日のぼくたちの置かれてゐる状況に語りかけてゐると言つてもよいくらゐのリアリティを感じました。 

まづ、渡邊一夫先生が、トーマス・マンの文章を譯すにいたつた敬意を寫しておきませう。

 

「私が平素抱いて居りました人生の考え方や思想の持ち方などを、マンの文章の一行一句が鮮明に表示していてくれたからでもあります。読書の欣びを、最も尖鋭な最も強烈な形で感じさせたこのマンの小冊子は、日支事変頃から、激動期における私の 『枕頭の書』 となり、次いで、『雑嚢の書』 となり、遂に思いあまった私に翻訳されることになってしまったわけであります」。

 

マンは、一例だけあげれば、「この世のなかでは、一切の重大犯罪は、細やかな心遣いなどを踏み躙って 『行動』 に出る利得というものの名に於いて行われる」、なんて言つてゐます。

 

あるいは、「トーマス・マンの最近の文章を読んで」と題する、アンドレ・ジードの「証言」のなかでは、「最惡の危険は、現代に於いて、理性が何処へ行っても愚弄されて居り、生活の名によって理性を否定する人のほうが、理性に從う人間よりも聡明に見える傾向があるということである」。と言つてゐるところなんて、どうでせう、今の日本の社會・政治状況と酷似してゐると思ひませんか。このやうに、何が大事なことであり、譲れないのかを、各自がしつかりと心にとどめておかなければ、ぼくたちはわけのわからない波にさらはれるだけでせう。 

 

今日の寫眞・・トーマス・マン+渡邊一夫著『五つの証言』(中公文庫) 

慈惠醫大病院の入院病棟。もう、ここに何回お世話になつたことだらう! でも、東京タワーがよく見えて素晴しかつた。