十月二日(月)壬戌(舊八月十三日 曇り

 

今日の讀書・・渡邊一夫著 『知識人の抗議』 (弘文堂・アテネ文庫)を一氣に讀みました。ないがしろにできない内容でした。といふのは、これを讀んで、戰後七十年以上も經つてゐながら、ちつとも變つてゐない状況がつづいてゐることが、よく分かつたからです。 

五つの「雜文」からなつてゐる本書は、戰前に書かれたひとつをのぞいて、すべて一九四七年から一九四九年までに書かれました。それなのに、二〇一七年現在の政治状況を見て書いたのかと思はれる内容ばかりなのであります。多くの人に讀んでもらいたい内容だとぼくは思ひました。 

 

「政治をとる人間は誰でも、船長が難破を避ける義務があると同じく、戰爭を避ける義務がある。」 とか、とくにうまい例へだなあと思つたのは・・・ 

「戰爭の間に、勿論人間は、平和時に見られない自己抛棄や自己獻身の美しい例を見せることがあります。しかし、これを以て戰爭は讃美できません。コレラが流行した折に醫者や看護婦が獻身的な行動に出たからと言つて、コレラを讃美する馬鹿は居りませうか?」 

と、かうです。 

 

今日は、渡邊一夫さんの意思・態度がなへんにあるのか、これらの紹介のやうになつてしまひますが、さらにつづけます。 

「昔から人間が考へ出した法律も平和機構も議会制度も、これを用ひる人間が好ましくない存在だつたら、いづれも人間を不幸にしかねない。その例は多くあつたし、現にある。例へば、日本の議會制度を見るがよい。日本國民には、議會制度すらまだもつたいないと思はれるほどに、でたらめな活用否濫用のされ方、相も變らぬ形ばかりの用ひられ方をしてゐる。・・・しかし、いかに用ひる人々が愚劣で、いかに用ひられ方が惡くとも、その制度なり法律なり機構なりが直ちに愚劣であり邪惡とは言へない。せめて、一度、よく、立派に用ひてみる努力を拂つたはうがよいのである。さういふ努力もしないで、一切を否定することは、これまた愚劣であり、アフリカの土人が何もならぬからと言つてラジオの機械をこはしてしまふのと同斷である。このやうな例は、戰前の軍部の政黨政治否定運動のなかにも見られた・・。」

 

まあ、ちよいと長い引用になつてしまひましたが、この文章なんて、現アベ政治が、「憲法」に對して「でたらめな活用否濫用」をし、愚劣な用ゐ方をしてゐるのを批判してゐるととらへても、なんら問題もありませんですね。 

 

それと、中國の古典の 『十八史略』 を例に引いて、平和とは、「人民が、政府はおろか、平和な政治を布いてゐる天子の存在も威光も忘れてしまふくらゐ」なのが、幸福で平穏な社会なのだと言つてゐるところなど、ぼくは膝を叩いてしまひました。さうなんですね。「人民」が政治のことに無關心でゐられるくらゐ正しいまつりごとがなされるのが、理想的な社會なんでせう。どなたかが、「政治は輕ければ輕いほどいい」とおつしやいましたが、まさにその通りなのであります。 

ところが、「事ごとに、政府や制度が、どぎつく、いやつたらしく、のしかかるやうに感ぜられる」、そんな戰前を襲つた状態が、いまやまた風靡しようとしてゐるのであります。ぼくみたいのが、口を出さずにすみ、のほほんと、日常生活ができるやうな政治がなされてほしいと、老い先短いぼくは思ふのであります。

 

今日、東野圭吾著 『ナミヤ雑貨店の奇蹟』(角川文庫) が届きました。先日の史策會のとき、大塚さんから薦められた本です。 

「悪事を働いた3人が逃げ込んだ古い家。そこはかつて悩み相談を請け負っていた雑貨店だった。廃業しているはずの店内に、突然シャッターの郵便口から悩み相談の手紙が落ちてきた。時空を超えて過去から投函されたのか?3人は戸惑いながらも当時の店主・浪矢雄治に代わって返事を書くが…。次第に明らかになる雑貨店の秘密と、ある児童養護施設との関係。悩める人々を救ってきた雑貨店は、最後に再び奇蹟を起こせるか!? 

といふものらしいです! 大塚さんが、「ただただ最高!」 と言つて唸つてゐましたから、よほど面白いのでせう。歸宅後、すぐにネットで注文いたしまして、それをまたすぐに讀みはじめました。明日は通院ですので、いいお供ができました。 

 

今日の寫眞・・渡邊一夫著 『知識人の抗議』 と 東野圭吾著 『ナミヤ雑貨店の奇蹟』。 

それと、今日のモモタとココ。