九月廿日(水)庚戌(舊八月朔日・朔 曇天

 

今日は、五十年來の友人であり、人生と讀書の先輩である、服部さんと藤卷さんのお二人と、久しぶりにご一緒して、上野公園を散歩し、また東天紅で晝食をともにしました。 

待ち合はせは、一〇時三〇分、京成上野驛の改札口。まづ、西鄕さんの銅像前で記念寫眞を撮り、不忍池の辯天堂に渡り、しばらくベンチで話を交はしました。話題は學生時代の思ひ出話につきません。むしろ、今日この頃の社會と政治の状況について、それはそれは口角泡を飛ばしてのお話會ひでした。 

まあ、戰前の戰爭が出來る體制にもどさうとやつきになつてゐる自民党、そのアベ政權を後押ししてゐる有權者が愚かなのであつて、そんな有權者を批判したつて暖簾に腕押しなのでありませう。ただ空しくなるばかりです。

 

と、あまり熱が入つてしまつたので、氣がついたらお晝でした。蓮の葉だけが繁る不忍池を渡りきつて、目の前の東天紅の九階に場所を移しました。はじめて入つたお店ですが、眺めはいいし、五目焼きそばやチャーハン、チンジャオロースーもとても美味しかつたです。ここでは、政治のお話はやめて、もつぱら健康問題を、その實踐報告と對策をおしやべりしまくりました。なにしろ、元氣で活躍中の先輩です。いつもながら、とてもいい刺激を受けました。

 

食後、職場に向かふ服部さんとわかれ、暇人のぼくにつき合ふといふので、卷さんとともに、地下鐵を乘り繼いで、なつかしい高輪台驛へ向かひました。ぼくたちが明學三年生のときに、押上・西馬込間が開通したので、多少利用したにすぎない地下鐵ですが、地上にあがると、懐かしい光景が目の前に廣がりました。目指すは、「雉子の宮」です。 

「藤枝梅安の家は、品川台の通りを南へ下った左手にある「雉子の宮」の社の、鳥居前の小川をへだてた南側にあった。」 

とは、『仕掛人・藤枝梅安』 のなかで説明されてゐる、その梅安さんの「家」を探しにでかけたのです。もちろん小説であり、フィクションですけれどね、自分の中では、梅安さんは生きてゐるんですから、その住まひをつきとめたいのでありました。

 

五反田驛に向かふ櫻田通り(品川台の通り)の坂道を下つていくと、左側に、「雉子の宮」を發見、「雉子神社」として健在でした。けれども、社殿はビルの中に、まるで入れ子のやうに納まつてゐて、周りはビルだらけ。裏を覗くと、お寺があつたりして、右手(南側)の一段低くなつた、當時は小川だつたと思はれる、その道の向かひの高臺あたりに梅安さんの家が想定されたのだなあと、一應納得しておきました。 

卷さんとは、五反田驛前の喫茶店で休憩し、日本橋驛でお別れしました。 

 

註一・・「上野不忍池辯天堂」 不忍池の中島にあり、浮世絵等にも数多描かれている、今も昔も観光名所です。 

寛永2年(1625)、僧天海が琵琶湖の竹生島を模して造らせました。元々は離れ小島で船で行き来していましたが、参拝者が増えたため石橋を作りました。戦災で焼失しましたが、昭和33年に現在のものが再建されました。 

池には蓮の葉が茂り、ハトやスズメが飛び、鯉や龜、スッポンまでが都会の真ん中で生きている、そんなのどかでゆったりとした場所です。その蓮の花は、庶民の憩いの場にしようと天海僧正が植えたものとか言われています。 

 

註二・・「雉子神社」 創建は文明年間(1469- 1487年)と言われている。村民の霊夢により、大鳥明神を祀っていた。江戸時代に入り、慶長年間になり三代将軍・徳川家光が鷹狩りに来た時、一羽の白雉が社地に飛び入ったのを稀なめでたいしるしとして、家光から「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、「雉子ノ宮」と改称した。そして江戸社寺名所にその名を連ねた。明治維新の際に雉子神社と改められる。 

 

今日の寫眞・・西鄕さんの銅像前で記念寫眞。辯天堂の小鳥たちと蓮の花一輪。東天紅にて。それと、雉子神社。